謎とき『罪と罰』 ―「リアリスト」ドストエフスキーの創作の秘密を探る

 

謎とき『罪と罰』 (新潮選書)

謎とき『罪と罰』 (新潮選書)

 
「罪? 何が罪だ? ぼくがあのけがらわしい有害なシラミを、だれにも必要のない金貸しのババアを、貧乏人の生き血を吸っていて、殺してやれば、四十もの罪障がつぐなわれるようなババアを殺したことが、それが罪なのか?」
 
 学費未納のために大学を除籍され、家賃滞納のために住居から追い出される寸前の青年ラスコーリニコフによる、十三日間の物語「罪と罰」は、ドストエフスキーのみならず、世界文学の代表作として知られている。
 
 主人公の妹ドゥーニャと、ヒロインのソーニャ(ソフィア)が、いささか理想的すぎる等、女性描写は他の作品に比べて深みはないが、執拗で偏執的な独白文体がかもしだす人間模様は、21世紀の今でも人々を魅了するダイナミズムがあふれている。
 
 「罪と罰」の「どうして古代の偉人は他者の血を流すことが許されたのか?」「天才は凡人の権利をふみにじることができるか?」という命題は、刊行から150年近くたった現在でも通用する生々しさがある。果たして、今、その問いに対して、我々は明確な回答を用意することができるだろうか。
 
 この「謎とき『罪と罰』」の著者は、「罪と罰」の邦訳も手がけている江川卓(えがわたく)。ロシア語と文化に精通した氏の解説はマニアックだが、これまでドストエフスキーを「観念的」ととらえていた人は、その「リアリスト」ぶりを、本書によって知ることができるはずだ。
 
 一見こじつけに見える本書の解釈には、ドストエフスキーが、いかに「罪と罰」を書こうとしたかという創作動機が見え隠れする。世界文学に燦然と輝くドストエフスキーが、どのように小説を書いたか。本書はその秘密を知る手がかりになるはずだ。
 

◆730歩とS横町

 
 「罪と罰」の秀逸な表現のひとつが「730歩」である。これは、主人公ラスコーリニコフの下宿から、犯行をおかした質屋までの距離のことだ。「5分ほど」という時間ではなく、「500メートルぐらい」という距離でもなく、「きっかり730歩」と書いたところに、主人公の計画犯罪に対する心理が見事に映し出されている。
 
 この数値は、ドストエフスキーの夢想から生まれたのではない。「罪と罰」には「S横町」や「****通り」など、地名の伏せ字が多いが、当時のペテルブルクを知る者には、それを実際の場所に置きかえることが容易であり、この物語は地図上で再現することができるのだ。
 
 謎めいた表現をした理由は、「罪と罰」という小説が、執筆当時のペテルブルクをそのまま舞台にしているからである。現実へのコミットを避けるために、あえて「分かる人にはわかる」程度に名前をぼかしているのではないかと考えられている。
 
 「罪と罰」の物語の舞台は1865年であり、発表されたのはその翌年だが、その多くの構想は前年に練られている。つまり、ドストエフスキーは、執筆時のペテルブルクの風俗を、迫真性あふれる描写でつづってみせているのだ。ゆえに、この作品は「社会的」であり「現代的」なのである。
 
 「罪と罰」では、主人公ラスコリーニコフの殺人以外にも、数多くの事件が起こる。飲酒をして服を乱している16歳の娘、川に身投げする女、馬に曳かれて死ぬ役人、そして、田舎紳士が起こした少女陵辱などのゴシップ。それは、ラスコリーニコフの「理想的な」犯罪動機の背景としての役割だけではなく、人間群像がうごめく「近代都市」の孤独を映し出しているのだ。
 

◆「犯罪と刑罰」と罪刑法定主義

 
 もともと「罪と罰」というタイトルを複数形にすると、「犯罪と刑罰」という意味になり、18世紀イタリアの刑法学者ベッカリーアの著書と同じタイトルになるという。「罪刑法定主義」、つまり、どの行為が犯罪で、それに対していかなる刑罰が科せられるかについて、体系化したのが、ベッカリーアの「犯罪と刑罰」であり、それゆえに、近代刑法の古典とされている。
 
 「罪と罰」には、主人公の「凡人・非凡人論」や、新約聖書の「ラザロの復活」など、超法規的な話題が数多く出てくるが、最終的に主人公が受ける罰については、当時のロシアの刑法による「罪刑法定主義」が貫徹されている。これもまた、「リアリスト」ドストエフスキーならではといえるだろう。
 
 僕が初めて「罪と罰」を読んだのは、高校時代であり、そのときは、ラスコリーニコフが娼婦ソーニャの敬虔さにひれふしてしまうという展開が納得いかなかった。ソーニャの信じるキリスト教は僕にとって未知の世界であり、そのような概念で「許される殺人はあるのか?」という命題をごまかしていると映ったのだ。だから、僕は「罪と罰」を読み終えるとすぐに「新約聖書」を独力で通読することにした。
 
 それから十年以上の時を経て、この「謎とき『罪と罰』」を読むと、「罪刑法定主義」を徹底しているからこそ、宗教という精神のよりどころを描かなければならなかったことがわかる。「犯罪小説」として「社会小説」として、当時の混迷した犯罪都市ペテルブルクを描いているからこそ、キリスト教の意義を示さざるをえなかったと、今の僕は感じている。
 

現代日本の「罪と罰

 
 「謎とき『罪と罰』」の多くの文面は、結局のところ、キリスト教ロシア正教とロシア民話とのこじつけに割かれている。それを知ることは面白いが、いっぽうで、最初に「罪と罰」を手にしたときに、衝動的にページを読み進めた、あのダイナミズムが奪われてしまうという危険性だってある。
 
 作者がそれぞれの登場人物にネジを巻き、そのからくり装置を発動させるときに、どのような意図があったのかを知るだけで、「罪と罰」が今もなお、世界文学の代表作となっている理由を説明することはできない。そのクドい文体の中に真意が隠れていたことを知らなくても、「罪と罰」が放つほとばしる熱を理解することはできる。
 
 そして、我々は「罪と罰」の重要なモチーフのひとつ、キリスト教文化がきわめて薄い日本という国に暮らしている。
 
 たとえば、「絶望的な借金をしようとしたことがありますか?」という酔いどれ元役人マルメラードフの言葉。
 
 愛する女にピストルをつきつけられ、逃げられた後で、変態紳士スヴィドリガイロフが5歳の女の子に見つける淫靡さ。
 
 本書でドストエフスキーという小説家が持つ天性の才能を知るいっぽうで、僕は現在日本の「罪と罰」という物語を考える。今の日本は、富の99%を50代以上の人間が握っているという、世代格差社会である。
 
 「富の再分配」の可能性のために、質屋店主の殺害をはかろうとした貧乏青年ラスコリーニコフの思いは、今の日本の若者たちの中にも眠っていないだろうか。
 
 その物語にどんな結末を与えればよいのか。宗教が揶揄されるこの日本ですがりつくべきものはなにか。僕は、再度「罪と罰」を読み返しながら、そのことを考えてみようと思う。