よこぶん狂詩曲 Vol.1

 昨日のよこぶん(横浜文学学校)のハイライト。
 
Oさん(作者):この小鬼というのは、大学時代のときに見えていたものがモチーフになっているんです。
Mさん:それって小さいおじさんみたいなものですか?
Oさん:ええ、そうですね。
先生:ちょっと、いいですか?
Oさん:はい、先生。
先生:小さいおじさんって、きいたことないんだけど、漫画ですか?
Oさん:いえ。
先生:アニメですか?
Oさん:いえ。
Bさん:先生、現実の話です!
 
 老紳士である先生と、若いOさんとのやり取りが、とてもシュールで面白く、見学者としての身分であるのに関わらず、大笑いしてしまった僕である。行儀が悪くて申し訳ない。
 
 こうして、僕は横浜文学学校に正式に入校することになった。会費はひとまず先輩が立て替えてくれた。いつもスミマセン。
 
 横浜文学学校は、中華街近くの「かながわ労働プラザ」にて、月に四回開催している自主講座である。月に二度、芥川賞作家宮原昭夫さんを講師として、合評と講評を行っている。その他、月に二度、会員による学習会が開かれる。いずれも、木曜日の19:30〜21:20開催。また、機関誌「JUST」を発行している。会費は半年27,000円、学生だと15,000円。
 
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横浜文学学校公式サイト
 
 会員は二十代の学生から六十代までと幅広い。男女比率は半分ぐらい。書くジャンルも雑多で、いわゆる純文学から歴史小説、ファンタジーにまで及ぶ。かたよったところがないのが、横浜文学学校の魅力といっていいだろう。
 
 そんな自主講座に僕が参加したきっかけは、厄介になっている先輩に誘われてのことだ。僕は先輩宅で養ってもらっている情けない身分なのだ。ただ今、鋭意求職中である。
 
 先輩とは大学の同窓で、文芸サークルに所属していた関係である。横浜文学学校に誘ってくれたということは、それだけ僕の才能を買ってくれているということだろう。ありがたいことである。
 
 
 さて、昨日、横浜文学学校で行われたのは、合評と講評だった。題材となるのはもちろん、会員の作品である。合評で会員同士が作品の感想を言い合い、講評で宮原昭夫さんがその作品を分析し批評をするというスタイルだ。
 
 昨日、題材となった二作品は、いずれも読みごたえがあり、僕が入校を決意するきっかけとなったものだ。それは僕だけではなく、百戦錬磨の宮原先生さえも同様で、嬉しそうに講評しながら「良い小説が読めて幸せだねえ」とほくほく顔になっていた。
 
 宮原先生は、芥川賞受賞だけではなく、直木賞候補にもなった小説家である。先輩によれば、節操のない作家といわれているらしい。そんなところは、この自主講座でも、若い人たちの言葉に耳を傾け、楽しそうな笑みを浮かべていることからわかる。その外見に、好々爺という印象を持つ人がほとんどだろう。
 
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横丁のご隠居をめざす作家 宮原昭夫公式サイト
  
 僕は不勉強にも、宮原先生の作品をまだ読んでいないが、今月24日に神奈川県藤沢市で開かれる講演会に誘われた。「センセイの講演は面白いから、ぜひ聞いたほうがいいよ」という助言にひかれ、僕も聞きに行く予定である。
 
 そんな宮原先生を招いた昨日の合評・講評会。そこで取り上げた作品の一つは、まだ未発表なので詳しい内容はひかえるが、もう一作はMさんこと、村田沙耶香さんの「街を食べる」である。今年の「新潮」7月号に収録されたものだ。
 
 村田沙耶香さんは、第46回群像新人文学賞優秀賞を受賞し、これまで三冊の単行本を出している。
 

授乳

授乳

 
 そのデビュー作「授乳」は賛否両論の問題作といっていいだろう。女子中学生の視点から、母親の醜さが語られ、家庭教師の学生を誘惑する姿が描かれている。思春期特有の「汚らわしさ」に対する執拗な描写、そして、家庭教師をひざまづかせ、母を蔑視する展開は、受け入れがたいと感じる人が多いはずだ。
 
 しかし、数日たっても、僕はそれを読んだ感触が忘れられなかった。「授乳」での汚いものに対する文章力は、潔癖性(強迫神経症)の女の子の心理を、僕にもわかるように丹念に映し出していた。その感触の秘密を探りたいと、別の村田作品である「ギンイロノウタ」を手にした。
 
ギンイロノウタ

ギンイロノウタ

 
 これを読んで、僕は「村田ワールド」に引き込まれることになる。
 
 「ギンイロノウタ」の主人公の少女には、見事なまでにとりえがない。家の手伝いは任せられず、学校では見捨てられている。成績は悪く、運動もできず、友達もいない。女を安売りしようとしたものの処女喪失に失敗し、コンビニバイトを始めても週に一回しか入れてもらえない。
 
 クラスで存在を忘れられた惨めな子。そんな少女の独白が、原稿用紙210枚にわたって続く。伏線を張ることがなければ、謎めいた人物があらわれることはない。ただ、誰の記憶にも残らない地味な女の子が、いかに日々をつむいでいるかに紙面が費やされている。
 
 そんな物語でも読ませる力があるのは、確かな筆力があるせいである。その描写は、主人公の感情を余すことなく伝えていると感じられる手ごたえがある。
 
 この「ギンイロノウタ」には、印象的な場面が多くが、もっともわかりやすい箇所を引用してみる。主人公が女の証明のために、不良グループに身を捧げようとするシーンだ。
 

 先輩は下着の上から膣を探し当てると、肘が上下するほど激しく、テレビゲームのコントローラーにするようにそこを連打し始めた。私は、鈍い痛みを感じながらぼんやり天井をみていた。
「お前、声とか、出さないの?」
 不機嫌そうに先輩が言う。
「普通の女は、こうすりゃ喜ぶんだよ。お前、何なわけ」
 それを聞いて、私は今操作されていて、正しく反応しなければならないのだと気付いた。いろいろな種類の、女性の肉体の操作説明書が出回っていることは知っていたし、それを読んでもいた。
 先輩はますます激しく指を連打しはじめた。操作通りに反応しなくては。液体をだし、なにか音声をあげなくては。そういう仕組みになっているはずなのだ。なのに私は痛みを感じるばかりだった。
 気がつくと、私は自慰をするときのように、右足を左足にからめ、しっかりと腿を閉じていた。
「なんだよ? 開けよ」
 苛々と先輩が言った。
「もったいぶんなよ、鬱陶しいな。こっちだって、好きこのんでお前なんかと付き合ってるわけじゃねーよ、気味わりい」
 今こそ、私は誰より私を安売りしなくてはならなかった。笑って足を緩めなくては。けれどそう思えば思うほど、私の腿は締まっていった。
「開けっつってんだろ」
 舌打ちが聞こえたが、絡み合った私の二本の足は先輩の指の進入すら許さなくなっていた。
 
引用:「ギンイロノウタ村田沙耶香

 
 こうして、部屋から追い出されても、彼女の物語は続いてゆく。
 
 この作品の主人公は、言い訳ばかり考えて、嘘をつくことで自分を保身しようする弁解がましい性格である。だが、小説のスタイルは怖ろしいまでに潔(いさぎよ)い。構成の技法は一切使わず、文章力だけで「面白さ」を勝負しているのだ。これが純文学か、と、その描写の深さに恐れ入った。
 
 その村田作品の最新作である「街を食べる」は、50枚程度の短編で、それまでの主題であった性描写がなりをひそめている。冒頭では、丸の内で働いている女性社員の「田舎っていいよね」「だよね〜」なんて能天気な会話が語られる。しかし、そこからの深度は、この作者ならではのものがある。
 
 結末近くになって、主人公は、公園で遊ぶ子どもに、常識外れなことを優しく語りかける。子どもは泣いて親にすがりつき、主人公は不審者扱いされる。
 
 不覚にも、僕はそんな主人公の言葉に共感してしまった。もし、その子どもを見かけたら、自分も同じ言葉をかけたかもしれない、と思うほどに。
 
 主人公の精神の変化、つまり、価値の転換が、読んでいる僕にも宿ってしまったのである。それは、余すことなく主人公の心情が描写されているせいで、いつしかその毒を体内に取り入れてしまったからだ。予防接種でのワクチンにより、その病原体に抵抗がなくなるように。
 
 それは犯罪者の手記を見て、しかるべき動機を知り、それに同情を抱くのと似たものがあるのかもしれない。もちろん、いかなる理由があれ、みずからの意志に基づくものであれば、社会を乱す犯罪行為は許されるべきではないし、「街を食べる」は、そのような犯罪性を匂わせる表現を注意深く避けているけれど。
 
 多くの人が知らず知らずのうちに分けている、あっち側とこっち側という境界線をなくし、まるで他の人間にのりうつったかのような感覚にさせる「街を食べる」には、文学が持つ可能性が秘められていると感じた。
 
 そんな危険な小説を発表し続ける村田沙耶香さんだが、第一印象は礼儀正しく、物腰柔らかな、魅力的な女性であった。彼女もまた、横浜文学学校の会員の一人で、宮原先生のそばが、彼女の指定席である。
 
 その彼女の発言は実に興味深いものだった。それは、自身の作品ではなく、もう一つの他作品への感想のときに発した言葉からである。
 
 その作品について、僕が厄介になっている先輩は「素材を贅沢に使いすぎ」と評した。僕は「この登場人物は必要ないのではないか」と分析した。才能を感じさせる表現が多いのに関わらず、全体として見れば、まとまりが欠けていて、読後感もしっくり来ない。多くの会員の感想が「面白いがもっと整理すべし」というものだった。
 
 だが、村田さんは、登場人物が「小鬼」というモチーフを受け入れている世界観が、乱暴ではなく、幸せなものであり、描写に作者の誠実さが感じられると評した。
 
 僕は登場人物を「道具」として見なし、いかに面白くすべきか、と考えていたが、村田さんは、その世界観を構築する作者の姿勢について語ったのだ。
 
 村田作品には、性描写や暴力描写が少なくない。登場人物の少なくない数が、憎むべき存在として登場する。しかし、それらの世界は、社会で記号化された陳腐なものではなく、その作品でのみ有機的に機能するものだ。フィクションとして確立された空間がそこにはある。
 
 彼女の文章力の確かさは、そのフィクション世界を、肌触りがわかるほど、読者に明確に伝えていることにあるが、それは、彼女が小説の舞台となる箱庭を丹念につくりあげているからなのだ。砂場で汗をかきながら精巧な山を作るように。
 
 イラストの描き方について、よく2chで解説スレッドが紹介されているが、それは書きたいものをどれだけ明確にイメージするかと、それを形にできる技術を身につけるかということに費やされている。文章の書き方もそれと同じだ。自分の想像の至らなければ、それが描写されることはない。三角計が円錐なのか三角錐なのか、読者に提示しないと、その作品が信用されることはない。物事の裏側まで知らなければ、読者を本気にさせる文章を書くことはできない。
 
 他者の作品の世界観を評する彼女に、僕は小説家・村田沙耶香の真摯さを知った。ムダだからとか、面白くないからとか、そんな観点で登場人物を否定することなど許されないのだ。彼女は憎むべき存在である登場人物にも、慈しみを持って描いていることを知った。
 
 それがゆえに、彼女の文章描写は常識を忘れ去るほど魅力的なものなのだ。それはみずからの脳内構想をつきつめないと生まれないものである。時間をかけてじっくりと丹念に、内なる声を拾い上げていかなければならない。
 
 二次会にて、彼女が宮原先生にこうたずねたのが印象的だった。
 
「センセイ、やっぱり、一字一句書けなくても、毎日、机に向かわなければならないと思いますか?」
 
 白い紙に自分の脳内映像を書くよりも、他者の作品を楽しんだほうがずっと楽である。そして、たいていの人は、赤の他人の心をゆさぶるほど、精巧に脳内映像を文章として残すことはできない。それは、とても時間がかかるし、苦しく、困難な作業だからだ。こうして、ほとんどの人が、読む側、批評する側に回る。
 
 しかし、その苦難を知っても、自分の物語を書かないと満たされない人がいる。だからこそ、彼らはじっくりと、孤独にその物語を形にするのだ。
 
 その「満たされなさ」を人は「才能」と呼ぶ。
 
 
 さて、一方の宮原先生はというと、その「街を食べる」を笑顔で講評しながら「新たな村田ワールドが見られるのが楽しみ」と語った。ありふれた価値の転換の構図を説明しているかと思いきや、僕が見落としていた箇所を取り上げ、それを中心に「これまで防御だった村田ワールドが攻撃に出た」と評した。
 
 その講評を聞くと「街を食べる」という作品が、構図としてもしっかり確立されていることに気づく。批評に耐えうる作品、評論家が取り上げたくなる作品には、そのとっかかりがきちんと用意されているのだ。
 
 それをきちんと拾い上げる宮原先生と村田さんの間には、師弟愛というか、信頼関係が感じられた。牧歌的にたとえるならば、村田さんが森に宝物を隠して「センセイ、どこにあるのかわかります?」と笑って、宮原先生が「ふぉっふぉっふぉ」と嬉々としながら探すイメージである。
 
 村田さんは、今後も宮原先生を失望させないような、驚きを秘めた小説を書こうと努めるだろう。その師弟関係の美しさに、僕は思わず嫉妬してしまいそうになった。
 
 
 そんな宮原先生は、初めて会った僕のことも大事にしてくれる老紳士である。村田さんの作品の感想で「潔癖性の女性の心理がよくわかった」と答えた僕に、宮原先生は優しく語りかける。
 
先生:あの、潔癖性って、強迫神経症のことですよね。
僕:ええ、そうです。
先生:○○○って、強迫神経症だったの知ってます?
僕:へえ。
先生:○○○はねえ、奥さんの着物ですら、風呂場にいれて洗わないと気がすまなかったみたいでね。だから、結婚生活はすぐに破綻したみたいだよ。
僕:へえ。
先生:まあ、私だって、こういうチヂミの切れ方が乱れたりすると、気になったりするところがあるからねえ。強迫神経症じゃないけどね。
先輩:僕もそういうところありますね。だから、機関誌の校正とか向いているんですよ。
僕:そうですかぁ。
 
 おそらく、先生が話したのは有名な小説家のことだろう。先生のキャリアを見ればわかるが、我々にとっては伝説的人物と交流してきた生き字引的存在なのである。しかし、残念ながら、僕はそれほど日本文壇に詳しくないがために、せっかくの先生が話す逸話の面白さがわからずじまいだった。
 
 ついでに、先輩がわりこんできて「きっちりしないと気がすまない」ということを言われて、大いに恐縮した僕である。自慢じゃないが、僕ほど適当に生きている人間はそうはいるまい。うっかり、一度、先輩の靴を間違えて履いて出かけちゃったことがあるぐらいだ。そんな人間と同居するなんて、やってられないものだと思う。そんな不満を僕に一度も言ったことはないけれど。
 
 そんな先輩は、ある古典をもとにした長編小説を執筆中である。その構想を聞いてみたのだが、実に面白く、多くの人に喜ばれる可能性あふれる作品なのだ。歴史の年表でしか知らない事件が、ドラマチックに一つの物語で合わさっていく楽しみが味わえる小説になるはずだ。だから、毎日のように、先輩はその創作に打ちこんでいる。そんな先輩からすれば、無職でゴロゴロしている僕なんか、蹴り飛ばしたくなる存在かもしれない。ええ、すみません。
 
 僕が横浜文学学校ですぐに受け入れられたのも、この先輩の紹介であるところが大きい。他の会員の方や宮原先生が、僕を一目見て「こいつはできる!」と思ったわけではなく、ただの先輩の七光りである。先輩は方向性がバラバラな横浜文学学校の中で、等しく信頼されている人格者なのである。
 
 
 さて、横浜文学学校に入ったからには、小説を書かなければならないはずだが、今のところ焦る気持ちはない。先輩の構想する長編小説に匹敵するような魅力あるプロットはないし、それを急いで作り上げようとは思わない。
 
 僕としては、書くからには、宮原先生に「良い小説を読めて幸せです」と、ほくほく顔になるようなものを作りたい。しかし、そのためには、村田さんの描写力に匹敵するほど、それぞれの物語を突き詰めていかなければならないのだ。みずからの経験を総動員させ、その肌触りを心で感じられる文章を書かなければならない。僕はそんな苦しみから、最近は逃れ続けてきた気がする。
 
 自分と向き合わずに良い文章は書けない。そんな時間を、僕は毎日、持ち続けていこうと思う。
 
 ということで、このブログはすっかり文芸色に染まります。そういうのに興味ない人は、楽しめない方向性に行くんじゃないかと。書きっぱなしの連載は終わらせるようには努めますが、これまでの読者のかたを楽しめる話題は出てこないと思ってください。今の僕には、ハルヒ消失の映画化とか、本当にどうでもいい。それよりも、もっと刺激的な人との出会いが待っているのだからね。