文学フリマと文壇のキューバ
文学フリマって知ってますか?
◆文学フリマ公式サイト http://bunfree.net/
サブカルチャー評論家や漫画原作者として、その筋の人には有名な、大塚英志が提唱して始まった同人即売会のことです。
二回目からはボランティアスタッフに引き継がれ、これまで年に二回、第八回まで開催しているようです。
第八回では、参加サークル数300超、来場者数は約1,800人とのこと。
公式サイト写真を見れば、ブンガクという名がつくイベントにしては、賑わったイベントになっていることがわかるでしょう。
と、偉そうな紹介をしている僕も、先日、ネットを巡っている最中で、初めて知ったわけでありまして。
出展者を見ると、ジャンルは多岐にわたっているようです。
ミステリー・ファンタジー・純文学のほかにも、ノベルADVゲームを頒布しているサークルもいる様子。
もっとも目につくのは、大学サークルですが、僕が先週参加したブンガクな集まりみたいなところの出展もあります。
早稲田文学の「文壇のキューバ」というキャッチコピーには笑っちゃいましたが。
さて、どこのブンガクな集まりにもいえることですが「書きたい人は多いけど、評論する人がいない」というのが、文学フリマの現状みたいです。
思えば、文壇の凋落は文芸評論の沈下から始まったといえるでしょう。
特に、村上龍と村上春樹の登場は、多くの評論家を戸惑わせました。
彼らは、60年代の大衆音楽から影響を受ける等、それまでの文学的系図から外れた存在だったからです。
その後に出てきた小説家、吉本ばななや山田詠美などは、人々の支持を得たものの、文芸評論家には批評しがたい作品でした。
いつしか、人々は文芸評論家には耳を貸さなくなり、そして、文芸誌の売れ行きは低下しました。
とはいえ、いつの時代も、自分の物語を表現したい人はいるものです。ある者は漫画家になり、ある者はゲームクリエイターになり、そして、何の才能もない人たちが小説を書き続けました。
そんな小説志願者のビジネスは今でも細々と生き延びていますが、かつて文化を象徴した文芸評論家は、サブカルチャー評論家に取って代わられています。
しかし、小説を書く者にとって、もっとも大切な文章力を磨くには、書籍や他者の作品の批評が欠かせません。
みずからの構想に必死になったところで、それを文字に置き換えるのは、生半可な技量では不可能です。
他者の完成された作品を、自分の文章で言語化できないで、どうして自分の脳内を言語化できるのでしょうか。
とはいえ、今の文芸誌で支持されるのが「みずみずしい感性」のある作品です。その「みずみずしさ」のためには、文学に染まっていないほうが魅力があると考えている人は多いです。
しかし、ビートルズを聴くことで、ポップ音楽の可能性を見きわめることができるのと同様に、過去の作品を無視することは、自分の構想を文章化するうえで、適当なことだとは思えません。
そして、過去の作品を読むことで、それぞれの作品の立ち位置を類型化し、分析することができるのです。
書きたい人には、それ相応の理由があると思いますが、若さのほとばしる作品を書いたあとは、他者の作品を批評することも良いのではないかと考えます。
それは、新聞の文芸批評を気にする必要はありません。もし、自分だったらどう書くか、とか、ここは自分には書けない文章だ、とか、そんな個人的感想でいいと思うんです。
小説を読むのは骨が折れます。今では、それよりも手軽に物語を楽しめるメディアにあふれています。
とはいえ、小説ほど、手軽で編集加工が容易なメディアはありません。たとえ、漫画原作だとしても、小説の価値は今後もあるでしょう。
先週、ブンガクな集まりに参加して思ったことは、自分は今は書くべき時期じゃない、ということです。
それよりも、このブログで時々やっているように、他者のみずみずしい感性を、一人でも多くの人に伝えることに喜びを感じています。
もし、僕が学生時代に「文学フリマ」があったのならば、そのサークルを引き連れて、積極的に参加したと思います。
大学サークルというつながりがあれば、他大学の会誌を交換という形で手にすることができます。
小説を書く、というのは、一か八かの大博打みたいなところがありますが、批評はそうではありません。
別に時代をリードする評論家になろうとは思いませんが、他者の感性を自分なりの言葉で表現するという行為が、僕は昔から好きだったな、と思います。
今度の「文学フリマ」は12月6日に東京・蒲田で開催するようです。僕も予定をあけて、そこに行き、どんな作品があるのか触れてみたいです。「文壇のキューバ」とかね。