理想郷の喪失 −政治とSF小説と同人誌

 
 
 SF小説は、近未来や宇宙を舞台にすることで、架空の文明社会を描くことが可能だった。
 平等な社会、管理された社会、戦争のない社会、などなど。
 
 それらは、ユートピア小説、或いは、ディストピア小説と分類される。
ユートピア - Wikipedia
ディストピア - Wikipedia
 
 さて、21世紀に生きる我々は、理想社会に対する憧れをどれぐらい抱いているだろうか。
 
 
 我々が政治に求めるのは、次の三つに集約される。
 
(1)誰もが文化的生活を過ごせる社会
(2)努力がむくわれる社会
(3)正直者が損をしない社会
 
 (1)富の再分配と生活保護、(2)最低時給とサービス残業、(3)守秘義務内部告発、などの問題が、これらの要素から出てくる。
 この三つをすべて満たす社会制度とは、どういうものだろうか。
 
 
 例えば、平等主義が貫かれているキューバの例だと、教育費・医療費は無料であり、給料の格差はない。失業者はゼロだと宣伝されている。
 しかし、それは努力がむくわれない社会である。才能があっても、巨額の富を得ることはできない。他人より働いたところで、給料は変わらない。その仕事の報酬がまともに働いていない人々に再分配されるだけである。
 だから、米国への亡命者が後をたたない。米国で成功した者は、キューバに残る家族に、せっせと送金する。これらキューバ移民は米国政府を大きく悩ませる問題の一つである。
 また、国全体が貧しく、表現の自由が制限されているため、インターネットや携帯電話ができる国民はほとんどいない。それが「文化的生活」と呼べるか、日本人には疑問だろう。
 そんなキューバにも文化はある。例えば、サルサなどのキューバ音楽は世界中にファンを持つ。J-POPよりもはるかに世界の支持を受けている。巨額の富が優れた音楽を生み出すわけではない。
 
 
 日本国民は政治不信を抱いているが、さりとて、明確な理想社会を打ち出せないままでいる。
 かつて、人々の想像力を刺激していたSF小説は、21世紀になり、すたれているように感じる。
 我々の理想郷、ユートピアとは何だろうか?
 
 
 憧れの社会を過去の中に探すものがいる。
 サザエさんの食卓に、ドラえもんの空き地に、それを見つけようとする。
 ただし、ノスタルジアは未来を動かす原動力とはならないだろう。
 
 日本にはとてつもない可能性があると思われていた。
 それは、富を増やし、国民すべてを豊かにすることができると信じていた。
 しかし、それは現実的に不可能であった。
 豊かさは物価の上昇を生み、今では中国やインドに世界の視点が注がれている。
 日本はもう若者ではなく、青春時代を過ぎたのだ。
 もし、若返りたいのならば、国家を作り直すしかない。
 それは、これまで当たり前だと思っていた文化的生活を失うことになるだろう。
 
 
 我々の理想社会とはなんだろうか?
 その答えを探して、同人ショップを歩く。コミックマーケットがSFファン有志が中心になって生まれたことは有名だ。
 しかし、今の同人誌にSFを求めるのは難しい。
 いろとりどりの女の子が僕を出迎える。きわめて裸に近い格好をして。
 
 僕は溜息をつく。
 いったい、我々はこの社会をどうしたいのか。
 政治家の人間的過失を非難し、もっともらしいエコノミストの言葉にうなずき、想像力を異性のキャラクターに費やし、それだけで理想的な社会が訪れることを夢見ている。
 
 SFでは自由気ままな社会が描かれていた。
 東西冷戦の最中、共産主義に対する憧れと幻想を、人々は架空世界に託した。
 やがて、ベルリンの壁は崩れ、ソビエト連邦は解体した。
 
 我々の想像力はどこにいくべきなのか。
 過ぎ去りし過去に思いをはせるべきか。
 食欲と性欲といったみずからの欲望に忠実であるべきか。
 
 この国には希望がない、と誰かが言う。
 未来に希望を寄せるような21世紀の物語。
 今の僕には、それを一行たりとも思い浮かべることができないままでいる。
 僕はみずからの憧れを未来に託すことができないままでいる。