官僚と地方分権と日本の展望

 
 民主党の威勢のいい官僚批判を聞きながら、兄の結婚式を思い出す。
 
 僕の兄は国家一種に受かった官僚である。県で一位を取るような男だ。その威光のおかげで、僕は中学時代に生徒会長をやったり、高校時代に廃部寸前の山岳部をのっとって一年から部長をやったりと、いろいろ楽しんだ。
 
 そんな兄の結婚式の主賓は局長だった。局長というのは、官僚のNO.2のことである。NO.1が事務次官。官僚というのは、定年退職をするまでに組織に残る人がごくわずかという珍しい職だ。事務次官や局長になれなかった人は、中途退職し、政治家になったり、独立行政法人や民間会社に行ったりする。これらで退職金を何度も得る官僚のことを、我々は「渡り」と批判している。
 
 さて、その局長の主賓スピーチのために、兄はわざわざプロットを用意してきた。こう喋って下さればいいですよ、という、いかにも役人らしいアドバイスである。しかし、その局長はそんな部下のプロットを無視してスピーチをした。即興性があり、ユーモアがあり、それは僕を感心させた。
 
 官僚といえば、国会答弁で大臣の尻拭いをする事務次官を思いだす。事務次官といえば、その道の日本最高のプロであり、いかなる失言も許されない。だから、いわゆるお役所言葉になってしまう。そんな僕の「怜悧な能吏」というイメージを、その局長のスピーチは一掃した。僕がこれまで耳にした、どんな政治家たちよりも、それは優れていると感じた。
 
 事務次官といい、局長といい、エリート集団である官僚トップの役職につくためには、国政選挙に当選する以上の実力がなければならない。党という後ろ盾がなく、個人の能力で挑まなければならない分、そのサバイバルは、次元が異なるとはいえ、選挙以上の熾烈な世界なのだろう。
 
 さて、そんな官僚を民主党は批判するが、その代表である鳩山由紀夫は、百戦錬磨の彼らに太刀打ちできるのだろうか。ここ四年の民主党の実績を振り返ってみると、国会運営を妨害し、二人の首相を辞職に追いこみ、補正予算案をギリギリまで拒み、党首討論からは逃げまわった。国民視点の政治が必要なのはもちろんだが、そのためには、行政を遂行する官僚を言いくるめるだけの実力がなければならない。
 
 もし、鳩山由紀夫が総理大臣になれば、政権公約を実行するように、官僚に命令したとする。それを最優先して予算を組むように指示したとする。しかし、予算は無限ではない。それがために、削らなければならないものが出てくる。こうして、政権公約を優先するために、それまでできていたことができなくなる。おそらく、それら官僚の助言を、鳩山由紀夫は無視するだろう。野党の立場だと、いくら政権公約を微調整したところで、たいした損害にはならないが、政権与党でそれをすれば、億どころの被害ではない。こうして、政権公約が立派に遂行される一方で、多くの国民に不幸をもたらすことになるはずだ。
 
 決して、僕は自民党を支持しているわけではない。ただ、民主党の実行力に疑問を抱いているだけだ。彼らは「政権交代」を連呼するが、自前の政策チームも完備していない。そんな彼らに、改革はできるのか。彼らを支持した組織への恩返しだけで終わるのは目に見えている。
 
 小泉・竹中の構造改革は失敗に終わった。しかし、そう言うのは後出しジャンケンみたいなものだ。当時は、新自由主義が全盛だった。ほとんどのエコノミストが、金融恐慌を予知することができなかった。
 
 民主党の小沢前代表はこう語る。「日本は自民党の独裁が続いていると諸外国に見られている。真の民主主義国家となるためには、ともに政権を担当できる二大政党制でなければならない」と。しかし、日本国民は、自民党支配を独裁とは受け止めていない。英米人から見れば民主国家ではないといっても、彼らは金融恐慌を予知できなかったし、自由がない中国を脅威と感じ、パートナーとなろうとしている。二大政党なんてアングロサクソン的な政治は日本人にはなじみがない。この不景気の中で、民主党に政権をゆだねるという冒険が許されてしかるべきだろうか。
 
 
 多くの人にとって、「官僚」とは得体の知れない集団だろう。彼らは果たして何をやっているのか。地方自治にたとえてみると、総務省役人がエクセルシートを作り、地方公務員がそれを入力するという感じだ。官僚が用意したシートに、その自治体の最新データを入力すると、あら不思議、交付金補助金などの予算ができあがるのである。
 
 そのエクセルシートは、一種類ではない。それぞれの地域性に応じて、A〜Fなどの種類がある。いずれにせよ、そのシートには、そのときの政策が反映されていなければならない。政治家が国民に約束したことは、すべて含めなければならない。それでいて、合計金額が予算を超えてはならないのである。
 
 そんなエクセルシートの帳尻合わせのために、霞ヶ関不夜城である。始発で帰宅し、定時出勤なんてこともある。官僚は知性はもちろんのこと、体力もないと勤まらない。それでいて、給料は民間企業には遠く及ばない。ただ、国を支えているというプライドが、彼らを働かせるのだ。
 
 最近、話題になっている「道州制」は、わかりやすくいえば、そのエクセルシートの作成を地方にゆだねてほしいということだ。そうすれば、より地方を反映した予算が組めるのではないか、と。
 
 しかし、官僚一人の仕事量に、命令されることに慣れた地方公務員が及ぶとは到底思えない。おそらく、官僚一人に対し、それぞれの道州で一人が担当することになるだろう。これだけで、人件費の無駄づかいである。さらに、官僚という得体の知れない集団がエクセルシートを作っているから、他の地方公務員はせっせと入力しているわけで、もし、道州レベルになれば、そのシート作成に干渉できるのではないかと考える人も出てくるかもしれない。
 
 政治家を鼻であしらう官僚でなければ、組めないものがある。地方分権には賛成だが、その人材育成を考えると、とてつもなく巨額の損害が出る。今の不景気のときに、そのようなことはすべきではないだろう。
 
 彼らのエクセルシートに、日本中の地方自治体が従う。もし、数字を一桁間違えたのならば、たちまち億レベルの損害が出る。そんなエクセルシートを作成できる人材は限られている。たいていの人は手が震えて、気が臆するだろう。
 
 国民の人気取りのために、ひたすら官僚批判をする民主党を見て、僕は危うさを感じている。官僚は決して高給取りではない。それでも、どんな民間企業よりも厳しい環境に耐えてきている。そんな官僚を軽視すれば、優秀な人材が集うことがなくなるだろう。日本の行政の根本をなすエクセルシートに無能な人間を据えたら悲劇しか待ち受けていないのではないか。無能な人間の帳尻合わせほど醜いものはない。それは多くの国民に不幸をもたらすだろう。
 
 
 今回の衆院選挙、世論調査によれば、民主党が躍進するとのことだ。多くの新人議員が生まれるだろう。そんな彼らが、官僚相手に渡り合うことはできるのだろうか。国民の支持があるからと頑なになると「生きた政治」ができなくなる。生きた政治ができるほどの実行力が、民主党にあるだろうか。
 
 そんなわけで、僕は民主党が政権をとった日本の未来には、おそろしく悲観的である。