「カッコ良さ」よりも「充実感」 ―「けいおん!」第12話ライブシーンから

 

 
 「けいおん!」12話では、三度目となる学校講堂でのライブ演奏シーンが描かれていた。
 曲目は「筆ペンボールペン」(新曲)と、アクシデントのため遅れた平沢唯が加入しての「ふわふわ時間(タイム)」(唯ボーカル)
 
 物語の性格上、過去二回と同じ場所でのステージとなるため、マンネリ化してしまう可能性があった今回のライブだが、リプライズ(再演)が良い味を出していた。平沢唯のとびちる汗と紅潮した頬も素敵だった。バンドの「カッコよさ」よりも「充実感」を描写し続けてきた「けいおん!」らしいシーンだったと思う。
 
 
 さて、三度の演奏シーンを分析すると、第6話の不評だったPVもどきも仕方なかったと納得することができる。
 
 改めて、過去の場面をまとめてみると。
 
 

 
【第6話】 曲目「ふわふわ時間(タイム)」 ボーカル:秋山澪
 
・L'Arc〜en〜Cielと60年代ロックの幻想を融合させたかのようなPVが挿入された。
 
 

 
【第8話】 曲目「私の恋はホッチキス」 ボーカル:平沢唯
 
・歌いだしを平沢唯が忘れたため、冒頭では秋山澪リードボーカルをとった。
・このライブをきっかけとして、新入生の中野梓が入部する。
 
 
 正直いって、第6話で演奏描写をして、第8話でPVを挿入したほうが効果的ではあった。
 第6話まで、部活動の演奏シーンがほとんどカットされた挙句、最初のライブシーンでPVが流されたことに、視聴者の間で「けいおん!」への不信感が高まるというリスクが生まれたからだ。
 
 しかし、第8話では、中野梓を入部させる動機づけがなされなければならず、それにつりあうだけの場面を演出しなければならなかった。
 
 そして、京都アニメーションといえば「涼宮ハルヒの憂鬱」の放送第1話にて、原作を読まなければ理解できない「朝比奈みくる主演の自主制作映画」を流したという前歴がある。視聴者を置き去りにしても、自分たちの信念を貫くことは忘れないアニメ作品を制作することで知られているのだ。
 
 全体を通して見ると、批判の多かった第6話のPV挿入も、いたし方なし、と納得することができた
 
 
 だが、第12話全体の内容は、決して良いものではなかったと僕は評価する。
 
 なぜならば、下級生の中野梓固執した「平沢唯がいなければステージに立つことはできない」理由に説得力をもたせることに失敗したからだ。
 
 中野梓の魅力とは、友達がいない・空気が読めない・ギターが生きがい、という内向的な性格にあると思う。彼女は小4からギターを始めたものの、決してそれは人に見せるためではなく、みずからを満足させるためだった。アニメでは、高校に入って、軽音楽部の存在を知ったものの、入部を躊躇する彼女の心情が描写されている。
 
 おそらく、彼女はこれまで大人たちにまじって演奏したことはあるものの、同世代の子とバンドを組むことはなかったと思われる。もしくは、それに関わる苦い経験があったのかもしれない。
 
 「これまで練習してきた成果を見せるためだから、唯抜きでも仕方がない」という秋山澪の態度に、中野梓が視聴者の心に響く言葉で反論することはできなかったのか。中野梓が「五人のステージ」にこだわる理由を、彼女の過去をまじえながらもっと掘り下げることはできなかったのか。
 
「あの学園祭を見たときに、あたしも一緒に、あのステージに立ちたいと思った。その中には、唯先輩がいなければ、絶対にダメなんです! このバンドだけは……」
 
 そんな台詞を中野梓が力強く言ったのならば、青春ドラマとしての「けいおん!」に、もう少し説得力をもたらすことができたと思うのだが。
 
 
 中途半端なドラマシーンと、三度目の見飽きた構図のライブシーンによって構成された今回の第12話だが、その退屈さを救ったのが、最後のリプライズ(再演)だったと思う。原作漫画では「失敗に終わった」という描写に留まっていたこのときのライブを、リプライズで大いに盛り上げたのは見事な演出であった。
 
 ロックコンサートのリプライズとして、真っ先に僕が思い浮かべるのが、ザ・バンドの「ラスト・ワルツ」でのボブ・ディラン
 
ラスト・ワルツ - Wikipedia
 
 もともと、ザ・バンドはディランのバック・バンドとして有名になった。そんな彼らの解散ライブである「ラスト・ワルツ」に、ディランが出演しないわけにはいかなかった。ところが、ディランの出演は難航し、曲目や出演時間などに大幅な制限が課せられたのだ。
 
 しかし、当のディランは最後の曲であった「Forever Young」を演奏して気分を良くしているうちに「このまま終わらせてはならない」と思ったのか、すでに演奏していた「Baby, let me follow you down」をもう一度プレイしようとメンバーに呼びかける。
 

 
 あまり良い出来だとは言えないこのときのライブだが、3分をこえたあたりから、観客の反応を受けて、ディランの機嫌が良くなっていく。そして、「このまま終わらせたくない」と、ザ・バンドのリーダー、ロビー・ロバートソンに再演を促すのだ。
 
 だが、ディランの出演には契約上の制限が課せられている。
 想定外の演奏は、契約料が追加されるだけでなく、映像化できないという危険性もはらんでいる。
 音楽業界を取りまく権利問題は、この70年代には、もはや、アーティスト本人の手に負えないほど巨大なものになっていた。
 
 ロビー・ロバートソンは「数学的」と形容されるギターを弾く男である。
 「もう一曲」をリクエストするディランのそぶりに、理性的な彼は「いや、契約のことがあるし」とあからさまに困った顔をしてみせた。
 しかし、他のメンバーは、さすがディランのバック・バンドを続けてきただけあり、ディランの意図に気づき、その要望にこたえた。
 ロビー・ロバートソンの「俺知らないよーっと」という表情や、それまで険しい表情をしていたディランの生き生きしたボーカルなど「ラスト・ワルツ」の最大のハイライトであると思う。
 
 もともと、ディランは、自身の曲「All Along the Watchtower(見張り塔からずっと)」を、ジミ・ヘンドリックスが見事なカバーでヒットさせたことに関して「あの曲は俺が書いたが、権利の半分くらいはヘンドリックスのもの」という能天気な回答をするような人間である。
 そんな気まぐれなディランだからこそ、「ラスト・ワルツ」でのリプライズは生まれた。
 
 そして、それは、観客だけでなく、ザ・バンドのメンバー、そして、リーダーのロビー・ロバートソンを「救った」と思う。
 
 「ラスト・ワルツ」のディランのリプライズは、ロックンロールが商業音楽から解放された、つかの間の瞬間であった。
 
 ディランと「けいおん!」を比べるのは大げさだが、そのような音楽を持つ力を、僕は第12話のリプライズで思い出すことができた。
 
 
 「けいおん!」というアニメが表現しようとしたことは、バンド演奏の「カッコ良さ」だけではなく「充実感」であったと思う。
 
 自身の学校の講堂を「ここが、私たちの武道館です!」と言った平沢唯の言葉には、夢中になれるものを持つことの素晴らしさを教えてくれる。成功するのはほんの一握りの人たちだけだが、誰もが「生きる理由」を持つことは許されている。
 
 まあ、これに影響されて、観客が望んでいない型どおりのリプライズや、冷え冷えとしたステージでの「ここが、私の武道館です」発言が、全国各地の高校や大学で交わされると予想すると、暗澹たる気持ちになるのだが。
 
 
【追記】
 
 ちなみに、僕は第12話では、OPとEDのライブ演奏バージョンが流されるのでは、とひそかに予想したものだが、あの曲を学園祭ライブで再現するのは、やはり無理があったのだろう。
 
 6話と12話で歌われた「ふわふわ時間(タイム)」は、オルガンが心地良いバンドサウンドな佳作だが、すでに発売されたフルバージョンでは、余計なブリッジ(大サビ)がある。
 どうせ、「私の恋はホッチキス」と一緒に、平沢唯バージョンを収録すると思うので、今度は大サビなしでお願いしたい。だいたい、JPOPの大サビって、曲を長くするだけの悪い印象しか与えないものが多いんだけど。洋楽好きの立場からすれば、JPOPの「はいはい、Aメロ、Bメロ、サビですね〜」という予定調和が、あまり好きになれない。
 
【さらに追記】
 

 
 サンドキャニオンの軽快なBGMにあわせた「36秒でわかる『けいおん!』シリーズ」も12話までの総集編が公開された。
 
 あの12話をどう料理するか楽しみにしていたのだが、なかなか綺麗にまとまっていて、満足できる出来だった。
 
マナヅルさん家 (MAD作者サイト)