東京の都市論は、日本の都市論となりえるか。


新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

 上記の本で面白いことが書かれてあった。それは、JRを「リアリティ」、私鉄を「バーチャリティ」とする都市論である。
 つまり、JRと私鉄が交叉する駅は「リアル×バーチャル」であり、JRとJRが交叉する駅は「リアル×リアル」となる。
 確かに、立川(JR中央線×JR南武線)には夢がないが、吉祥寺(JR中央線×京王井の頭線)には夢がある。下北沢(小田急線×京王井の頭線)はちょっと夢見がちなところがある。
 東京の街を語るとき、最寄り駅の路線は「背景」になる。特に、私鉄の始点は街への影響が強い。町田は小田急線(新宿)だから、新宿の「歌舞伎町浄化作戦」から逃れるように、風俗店が増え始めている。三軒茶屋は、東急田園都市線(渋谷)ということで、地元商店街も流行に敏感だ。
 渋谷でも、僕のようにダサい服装をしている人が少なくないのだが、常に渋谷駅は新たな人を吐きだし、そのような存在を飲みこんでしまう。絶対数が多ければ多いほど、それぞれの街が持つ背景に飲みこまれてしまうのだ。
 一方で、東京に来て驚いたのは「恩賜」という名称の多さである。動物園のある上野公園は、必ず「上野恩賜公園」と書かれている。三鷹ジプリの森に隣接する井の頭公園も「井の頭恩賜公園」とある。
 このような権威づけは東京では多い。「恩賜公園」には、民間の企業が踏み入ることができない不可侵性というものがあるのだ。おかげで、都心でも人々は公園で沐浴することができるのである。
 日本でもっとも初詣参拝客が多い「明治神宮」は、明治天皇を祀っている。だから、参拝することは、自身の祈願とともに、皇族の繁栄を祈願することになる。もちろん、明治神宮の参拝客が多い理由は、日本人の皇族に対する思い入れが深いということではなく、JR原宿駅を降りてすぐという交通の便の良さにある。
 井の頭公園フリーマーケットに顔を出したりしていると、やはり首都だなあ、と思う。「恩賜」だからこそ、一等地に広大な公園を設けることができるのだ。そのため、井の頭公園に集う人の顔色は、地方とは全然違う。地方の公園の多くは、行き場のない人の溜まり場という印象があるが、井の頭公園はそうではない。ランニングをしたり、楽器の練習をしたり、バードウォッチングをしたり、とにかく平和である。公園のあるべき姿を見る思いである。
 絶対的人数の多い東京は、都市論を語るうえで格好の教材となりえるが、それが果たして日本の実態をとらえられるのかどうか。休日に公園でのんびりとしながら、そんなことを考えたりする。


【関連記事】


【追記】

 東京は日本じゃない、というのは事実だと思う。
 僕が東京にいるのは、人が多いところには、金が集まるからである。
 東京にいると「豊かになる道は人脈しかない」ことに気づくことができる。地方での人脈は、職の安定を保証するぐらいだが、東京での人脈は、年収に直結する。
 富の分け前をめぐって、東京では人間関係が構築されているが、それは決して厳しいものではない。おこぼれをもらうことだってできる。
 地方に住んでいたときの無力感。それを忘れて東京に安住してしまっては駄目だと自分に言い聞かせた。