生物と無生物とのあいだ ―直感ではなく、質感を


生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

「生物とはなにか?」「生きるとはどういうことか?」
 それは様々な分野からアプローチが可能だろう。本書の著者は分子生物学者である。DNAという用語は知るものの、その物質の「ふるまい」についてはくわしく知らない人のために、わかりやすく説明することに成功した本である。
 科学の世界は、決して、陸上の世界記録のように、発見がただちに報道されることはない。例えば、フェルマーの最終定理。360年を経て、ワイルズによって証明されたのだが、ワイルズが最初に発表してから、一般に報道されるまで一年あまりを要している。

 もちろん、陸上の世界記録だって、大会というしかるべき舞台で達成しないと認められない。アフリカの草原で、練習場で、それ以上で走ったとしても「世界一速い男」にはなれないのである。科学の世界では、専門家によって認められ、雑誌に掲載されて、初めてそれが「発見された」とみなされる。
 本書の前半部分で書かれた、DNAにまるわる人間ドラマは興味深い。科学の世界も「自由と競争」を名目に掲げているが、経済と同じように、そこには人間関係が介在するのだ。一人のノーベル賞の背後には、数多くの科学者たちの生き様がひそんでいる。


 しかし、本書の魅力は、なんといっても後半部分「生命とは動的平衡にある流れである」という概念の説明にあるだろう。
 なぜ、我々の身体は、死後、数日で腐敗してしまうのか。それは、DNAという設計図をもとに、我々を構成する物質がたえず取り替えられているからである。毛髪が抜けて、また生えるのと同じように、肌も内臓も、そのもととなる物質は変化していく。半年たつと、自分を構成している物質は、まったく別のものになっているという。
 このような生命の流れを実感するには、断食するのが一番良い。数日間、何も食べずにいたあとで、食事をすると、その栄養が全身をくまなく満たしているような錯覚を感じるはずだ。自分の身体をいとおしく感じられるだろう。「生命の大切さ」を知るためには、自然にふれることよりも、まず、自分自身の肉体の神秘に気づくべきだと思う。満たされた食環境では、それに気づくことは難しい。飢餓感とは、生命を知るうえで欠かせぬ要素であると僕は思う。
 「生きる」と「死ぬ」の違いは、都市で考えるとわかりやすいかもしれない。人の流れがたえない街は「生きた」街である。いくら建築物が立派でも、人の流れがない街は「ゴーストタウン」と呼ばれる。東京でも「汐留」などの街は、個性的なビルが建ち並んでいるが、生きた街とは思えない。
 設計図だけでは、生きた街とはなりえない。同じように、人間の設計図であるDNAだけで、生命を語ることはできないのである。


 「直感は研究の現場では負に作用する」と著者は語る。「これはこうに違いない! という直感は、多くの場合、潜在的なバイアスや単純な図式化の産物であり、それは自然界の本来のあり方とは離れていたり異なったりしている」と。事実、著者が加わった実験結果は「仮説」とは大いに異なるものだった。しかし、そういうものなのだ。
 著者は「研究の質感」という言葉を使っている。「手ごたえ」と言いかえてもいい。
 自然の美しさがそうであろう。分子がたえまなく動くことに形成された生物には、それぞれに美しさがある。それは「直感」的なものではなく「質感的美しさ」と形容していいだろう。
 人類が自然から離れれば離れるほど「これはこうに違いない!」という直感ばかりが重視される。聞こえのいい言葉ばかりが重視され、それを本当に知る者の不器用な言葉は軽視される。しかし「質感」のない言葉は、時間とともに消えうせる。
 経済活動は、ともすれば、瞬間最大風速力のみを追いかけてしまいがちだが、そこに「質感」はない。生命の神秘を知ることは、人の「こうに違いない!」という直感がいかに無力かを学ぶことであると思う。そして、そういった生命によって、我々は生きているのだ。僕も「質感」のある文章を書きたいと思う。