映画「テラビシアにかける橋」(評価:A)

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初回上映を見に行ったのだが、観客は20人程度。カップル数組以外は、僕同じく一人で見に来た人ばかりである。この作品と同じく、主要人物が死ぬ「恋空」や「世界の中心でアイを叫ぶ」に比べると、悲しいぐらいの人気のなさだ。
そのすべての観客が、スタッフロールが終わって、照明が灯されるまで、席を立つことはなかった。感動したからではなく、スタッフロールの後に何かあるのでは、と期待していたのかもしれない。エンドマークをむかえたときの観客の感情を形容すると「混乱」というのが一番正しいだろう。
ヒロインは唐突にスクリーンから去る。「死」というより「喪失」である。その死を受け入れられない主人公の少年を「気の毒だ」と涙を流した人はいるだろう。しかし、少年はその後にある行動を取る。この映画の原作となった小説が発行されたとき、その結末は少なからずの読者を激怒させた。この映画を見た人も納得いかないエンディングかもしれない。
ただ、アメリカの大人たちはこの映画の原作となった小説を子どもに読ませ続けた。他者の死を経験した大人たちにはわかるのだ。他の悲劇にはない、この作品だけが持つちからを。それは人が生きるうえで、もっとも大切なものなのだ。
ただし、この映画は日本人の美意識にはそぐわないものだろう。おそらく、日本での興行成績は失敗に終わるはずだ。
だが、僕は自分に大事な人にこの作品を見せたい。ぜひ、お子さんのいる人は、この映画を見てもらいたい。映画館では感動しなくても、その記憶は、お子さんが生きていくうえで必ず役に立つ。



本当に悲しい出来事にあったとき、子どもはその記憶を喪失する。戦争の最前線にいた兵士が、大量虐殺を語る理性的言葉を持つことができないのと同じく、大切な人の死を直接的に語れるほど、人間は理性的ではない。
だから、この作品のヒロインの死の描写はリアルである。主人公はヒロインの死体を見ていない。まるで「神隠し」にあったかのように、ヒロインは消える。そして、ヒロインの家族は引っ越す。学校では机が取り払われる。彼女が生きてきたことを証明するものを、少しずつ主人公は失う。主人公はそのまま泣き暮らしてもよかったし、忘れてしまっても良かった。しかし、主人公はそれが嫌だったら、ある行動を取った。
ボブ・ディランの「ハティ・キャロルの悲しい死」というフォークソングを思いだす。黒人女性であるハティ・キャロルは白人青年に殴り殺された。その事実に基づいたその曲で、ディランは「今はまだ泣くべきときではない」と何度もくりかえす。そして、最後に白人青年がカネの力で無罪放免となったことを告げ「今が泣くべきときだ」と歌う。
この作品が書かれた理由に、ある実話がある。作者の息子は、落雷により、女友達を失った。その悲しみを癒すために、母親である作者は自分が書かなければならないと思った。あらゆるファンタジーも、女友達の死により心を閉ざした息子には届かないように見えたからだ。
この映画では、その息子が脚本に参加している。あまりにも実感のともなわない「ヒロインの死」の描写は、実際に少年時代に大事な人を失った者の実体験に基づいているのだ。
それにしても、ヒロイン、レスリーはとても魅力的に描かれている。帽子をかぶった姿は茶目っ気たっぷりで、まさか死をむかえる運命にあるとは思えない。反対に主人公の少年は内向的で、オタクっぽさが全開である。この対比は原作よりも強調されて、よりわかりやすくなっている。
原作にあった70年代の世相を物語る描写は取り除かれ、すんなりとアメリカの田舎町の物語を楽しめるに違いない。「オシッコに自由を!」などのコミカルな場面も多い。主人公の妹や、イジメっ子ジャニスの好演も光る。まったく、アメリカの子役のレベルの高さには舌を巻く。
ただ、架空の王国「テラビシア」の冒険を、実際に映像化する必要性があったのかどうかは疑問である。森の巨人は正直いって気持ち悪かった。あくまでも少年少女の空想の産物にすぎないことを、もう少し強調する必要があったと思う。
あと、少年少女が森を出歩くのは、実際のところ危険ではないか。原作では二人は森の奥地には足を踏み入れなかったのだから、森を我が物顔で闊歩する姿は問題あると思う。子どもが真似をしたら、どうするんだ。
(まあ、日本には森なんてほとんどありゃしないのだが)

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音楽には映像をつけるのが今では常識となっている。それは、アメリカのMTVがきっかけとなったのだが、あるミュージシャンはプロモーションビデオの作成には否定的だった。「曲にヒゲを書いてしまうものじゃないか」と彼は言った。
だが、映像をつけないと、多くの人には理解されないのが現実だ。ニコニコ動画を見るとわかる。その楽曲に映像がつけられたとき、再生数は加速度を増す。
では、映像がつくまで指をくわえて待つしかないのか。もちろん、そうではない。音楽だけでも、その楽曲の良さを気づかなければならないはずだ。僕はそんな感覚を養わなければならないと思っている。
ライトノベルの文体を批判することは簡単だが、ライトノベルの文体だからこそ、世に出る物語がある。そして、我が国の文化は、いまやコンテンツ産業に拠るところが多い。ライトノベルがアニメを生み、楽曲を生み、ゲームを生み、それが全世界に輸出される。その可能性をいちはやく見きわめる目。今後の僕の仕事を考えるうえで欠かせぬ能力だ。このブログは僕の自己訓練の場にすぎないが、そういう鋭さを身につけることを、存在意義としている。

*「涼宮ハルヒシリーズ」と「エヴァンゲリオン」はよく比較されるが、それはイラストレーターの問題ではないのかと僕は考える。
 「エヴァ」は「ヱヴァ」と改題してシンジがアスカにふられるというむくわれない物語をまた繰り返すようだ。これはハルヒ側にとってチャンスである。僕は7作目の「陰謀」以降の「萌え小説」ぶりには心底うんざりしているので、ハルヒが己を知りそれに決着をつける展開をひそかに期待する。10作目「涼宮ハルヒの驚愕」がなかなか発行されないのは、きっと、何かがあるはずなのだ。なんていうか、2年の1学期ぐらいで話を終わらせて、あとはいろんなエピソードをひたすら埋めていけばいいんじゃないかと思う。それがハルヒシリーズにとって、もっとも幸せな選択ではなかろうか。

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