「一度も植民地になったことがない日本」―日本は「世界の孤児」となるべし (評価:C)

一度も植民地になったことがない日本 (講談社+α新書)

一度も植民地になったことがない日本 (講談社+α新書)

オススメ度:★★☆☆☆
「ヨーロッパ人は毎日、日本の話をしている」
そんな帯のキャッチコピーにひかれて、つい読んでしまったが、本書にはこうも書かれている。

日本の新聞に載る欧米各国に関する記事と、ヨーロッパの新聞に載る日本に関する記事とは、その量において雲泥の差がある。アメリカの記事が多いのは世界の大国だからしかたないのだろうが、日本だって世界第2の経済大国、G8の一員なのだ。だったら、ヨーロッパの新聞に、せめてスペインやポルトガル並みの量の記事が載ってもいいのではないか。そう思うのだが、やはりヨーロッパにとって日本は遠い国らしい。

また、序文で著者は語る。

たとえば、国の違いをまったく感じないでつき合える人がいます。私にとって、まずはアーチスト。それからクリエイティブな仕事をしている人、またはその関係者。彼らは変な愛国心を持たず、かといって外国人への偏見もない(ないというか少ない)人々です。このあたりは感性の問題かもしれません。

どうやら僕は、愛国心をくすぶるキャッチコピーにダマされた愚かな読者の一人のようである。日本人であることにニヤニヤしてしまうような甘い言葉は、本書には記されていない。
著者はスウェーデン人と結婚してから、長く海外で暮らしている。版画家として個展を開くアーチスト活動のかたわら、多くの欧米の芸術家を日本に紹介する仕事をしてきた。本書は、そんな60代の国際経験豊富な婦人の「世界の中で日本はどう見られているか?」を紹介する講演みたいなものだ。
事実に反する内容もある。例えば、日本の歴史を語る際、著者はこう語る。

幕末の日本人の中で、アフリカや南米と同じように日本が植民地になるという恐怖を抱いた人が、はたしていただろうか。

これは勉強不足だろう。開国にともなう幕末の人々の狂乱は、日本には欠かせぬ歴史である。新撰組奇兵隊海援隊薩長同盟……。多くの攘夷志士が凶刃に倒れたその理由は、日本存続の危機だったからである。当時、清と呼ばれていた中国が欧米列強に食いものにされていることに恐怖を抱いたからである。それが、幕末の京都で多くの血を流し、明治維新を生んだのだ。
本書にはこのような事実誤認はあるものの、長年、外国で生活していた著者の言葉には説得力がある。「英語でタンカを切れない人は、英語を話せることにはならない」と著者は言う。欧米は契約社会である。相手の気迫にのまれてサインしてしまったら、もうひるがえすことはできないのだ。そんな修羅場をくぐりぬけてきた著者の、話し言葉によるエッセイが本書である。日本がヨーロッパでどう思われているのかを詳しく知りたい人は楽しめる一冊である。



以下、僕が読んで考えたことを列記する。
(これらは僕が読んだ内容を覚えておくための備忘録にすぎない)

すみませんの美学

日本人はすぐに謝るから信用できない、という話をよく聞く。それは「すみません」を「I'm sorry」と訳してしまうからだろう。接客業に携わった者ならば、「すみません」は次の三種類にわけられることを知っているはずだ。

  1. 恐れ入りますが
  2. 失礼いたします
  3. 申し訳ございません

このような区別をしていない日本人が「すみません」がわりに「I'm sorry」を使うから、話は厄介である。「申し訳ございません」以外の意味で使う場合は「excuse me」である。
さて、本書の著者は「すみません」にも美学はあると主張する。なぜなら、「すみません」は気軽にかけることができる言葉だからだ。そして、最近の日本では「すみません」が聞かれなくなったことを心配している。
欧米人は「Thank you」を頻繁に口にする。この「Thank you」は「すみません」に形は違えど通じるものがある。文化の違いはあっても、他人を気づかうことが人間社会でもっとも大事なことである。ぜひ、他人の親切には、きちんと言葉で答えるようにと、著者は主張している。

子どもは「It」

ヨーロッパでは、子どもは動物あつかいされるという。そして、子どもと同じぐらい犬や猫を大切に育てるのだそうだ。そのため、子どもに対するしつけは当然のように行われる。
欧米では教師の体罰は犯罪となっている場合が多いが、親の体罰は日本よりも厳しい。彼らは赤ん坊を「It」と人間あつかいせずに語ることがある。そして、そんな彼らを人間にしてやるのが親の義務だと考えている。
日本では「学校での体罰は問題」という点ばかりがクローズアップされているが、教師の体罰は、親が自分の子に甘い育て方をしてしまう文化の裏返しではなかったか。
日本の教育問題を考えるうえで、欧米では「子どもは動物」と見なされている文化を抜きにして語ることは許されないと思う。

マスター・カントリー

ある南米人と仕事をするときになったとき、著者はこうきかれて大いに戸惑ったという。「日本のマスター・カントリーはどこだったのですか?」
彼女からすれば、有色人種にはマスター・カントリー、つまり植民地として支配する国家がいることが当たり前だったのである。彼女はマスター・カントリーによって、言語や宗教を知ろうと思ったのだろう。
そんな彼女は「ゲスト・ワーカー」と呼ばれる。国籍の有無に関わらず、旧植民地からの人のことを、そう区別しているのだそうだ。彼女からすれば、同じ有色人種である日本人が、白人たちと対等な立場であることが理解できない。
もちろん、世界的には「植民地になったことがない有色人種の国家」として日本は知られている。そう、日本という国家は、世界からは例外的な存在なのである。

日本人は得体が知れない

何はともあれ、欧米はキリスト教国家である。そのため、イスラムや日本については「自分たちと同じではない」という不信感をずっと抱いている。
日本はファシズム国家だとよく言われる。第二次世界大戦後も自由民主党がほぼ政権を担当してきた。これは欧米からすれば異様な状態であり、真の民主主義国家ではないと見ている。そのため、国際的に見れば政権交代のできる政党が存在しておいた方が好ましいのである。民主党の迷走も、このような「国際評価」を前提として存在しているせいだろう。
天皇の支配のもと、自由民主党が長年の独裁をしいているファシズム国家。日本人からすれば「?」と思えるイメージを、欧米人はずっと抱いている。それが明らかになったのが、次に語る「9.11」の報道姿勢だろう。

KAMIKAZE

2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件を、ヨーロッパの新聞はこう表現した。「KAMIKAZE」
神風特攻隊と、イスラム過激派の自爆テロと何の関連性があるのかと思われるかもしれない。しかし、イスラム自爆テロを語るにはある日本人を抜きには語ることができない。
そう、アラブの英雄である岡本公三である。
(→岡本公三 - Wikipedia
彼は、1972年のテルアビブ空港乱射事件の実行犯の一人である(残りの共犯者二人は自殺した)。彼らはイスラエルの空港で民間人に無差別攻撃し、24人もの死者を出したテロリストである。この事件を中東では「日本人の若者が、アラブのために身を犠牲にして、イスラエル人を殺した」と受け止めた。この殺人者は、国際指名手配犯だが、今もレバノンにて英雄として生きている。アラブ諸国親日的な理由として、岡本公三の存在を抜きにして語れないほどである。
岡本公三の名はヨーロッパにも知れわたっている。その関連で、あさま山荘事件がニュースに映しだされる。「日本赤軍」「連合赤軍」「赤軍派」など、彼らのグループ名はいろいろあるようだが、やったことは人殺しと仲間割れである。山岳ベース事件では、12名の仲間を意味不明な理由で殺害した。イデオロギー固執した者の哀れな末路としか形容しようがないが、彼らのことをヨーロッパ諸国は日本以上に忘れていない。特に、岡本公三の起こしたテルアビブ空港乱射事件は、イスラム過激派に自爆テロをうながすきっかけとなった。
岡本公三の名を知らずして、現在のイスラムテロリズムを語ることができない。ヨーロッパ人が、イスラム過激派の自爆テロを「KAMIKAZE」と呼ぶ理由には、そんな日本人テロリストの存在もある。

第二次世界大戦の傷跡

イラク戦争が勃発したとき、日本の参戦にヨーロッパ人は驚いたそうだ。「日本には軍隊がなかったはずでは?」。自衛隊は軍隊ではないという説明を「まるで禅問答のようだ」と彼らは語る。なお、著者は南仏在住であるため、フランスの視点で、この戦争のことを語っている。
アングロサクソンは単純だ。だから米英が参戦したのは当然だ」と彼らは言う。「しかし、ドイツは参戦しなかった。ドイツは初めてアメリカに反抗した。なぜ、日本もそうしない?」。これがフランス人の多数意見である。
一方で、フランスのニュース番組では「G8の大国でテロが好きな国民は、日・独・伊だ」と結論づける。フランスにはテロなど起こりようがないといったふうである。2005年パリ郊外暴動事件で「夜間外出令」が出されるまでに至ったことを知る日本人は、こんなニュースキャスターの言葉に首をかしげるしかない。
ヨーロッパ人は今でも第二次世界大戦のことを忘れていない。いまだに、オランダ人はドイツ人を心底許していないのだそうだ。ドイツがネオナチに敏感なのも、それがすぐ国際問題に発展するせいだろう。日本にとっても、それは対岸の火事の話ではない。

日本人にしか生み出せないもの

戦国時代、日本に来た、スペイン・ポルトガル・イギリス・オランダの外国人を、日本人はこう呼んだ。「南蛮人
なぜ、当時の日本人はヨーロッパ人を野蛮だとしたのか。例えば、屋内でも土足で上がる。食事にナイフという凶器を使う。風呂を浴びないため清潔ではない。そんな風習が、戦国時代の人にとっては、野蛮に見えたのである。
そんな日本文化は、未だに多くの外国人を驚かせる。一つが「駅弁」。その色鮮やかさは、欧米では決して見られないものだという。また、「個人宅配便」。仕事以外で利用できる「個人宅配便」は、ヨーロッパにはないという。しかも、時間帯指定もできると聞くと、ヨーロッパ人は「ありえない」と語る。そういえば、列車が数分乱れず運行していることも、彼らには「信じられない」ことらしい。
多くのヨーロッパ人にとって、いまだに日本人は「機械の国」と思われることが多い。わが身を犠牲にして、機械をどんどん生産する。その結果、何でも機械で解決しようとする文化だと批判されるのである。自動販売機がその象徴ではないか、と彼らは言う。
日本人の美学は「職人芸」であろう。日本の職人芸は外国人を感動し続けている。そこには、大量生産では作ることのできない、人間の英知があるはずなのだ。今後、日本文化は、このような「職人芸」を大事にしていかなければならないだろう。

日本は「世界の孤児」となるべし

著者はよくアジア人に声をかけられるらしい。「あなたも同じアジア人ですよね」。そう笑顔で話すパキスタン人を見ながら、著者は自分との共通点を何とか探そうとするが、見つけることができない。
日本がアジアに属するというのは便宜上のもので、中国と日本の文化は、ヨーロッパの近隣諸国に比べると、大きな差がある。「EU」のような共同体を、日本と中国が作ることは、永久にありえないことだろう。
どうやら、日本はアジアでの居場所を探そうとしたものの、見つからなかったようだ。東アジアの雄となるべし、という甘い言葉に誘われて、努力をしたものの、やはり日本文化は他とはまじわれないものだったのである。
著者は言う。「世界の孤児でもいいじゃないか」と。むしろ、そうして、みずからの文化を主張しなければならないと言う。
かつて、日本文化は「欧米の猿真似」とののしられたものだ。しかし、アニメやゲームなどを中心に、若者たちの間では、日本ブームが起こりつつある。
ヨーロッパで日本人は敬意を抱かれつつも、まだ偏見を抱かれている。だからとはいえ、キリスト教文化という土壌が異なる相手に歩み寄ることには限界がある。そのとき、日本が取るべき態度は「孤立」しかないだろう。他国に媚びずに、堂々と自分の文化を発信していけばいい。「日本は世界の孤児である」。そのような気概を持って生きることが、日本人のこれから取るべき道であろうと、本書を読んで思った。