「ロードス島攻防記」―華やかなりし騎士時代の終焉 (評価:B)

ロードス島攻防記 (新潮文庫)

ロードス島攻防記 (新潮文庫)

おすすめ度:★★★☆☆

滅びゆく階級は、常に、新たに台頭してくる階級と闘って敗れ去るものである。1522年のロードス島陥落は、西欧の中世を彩った騎士たちの時代の終わりを物語っていた。
「東地中海での最後のキリスト者の砦」と呼ばれたロードス島を守るのは、500人余りの聖ヨハネ騎士団。対するは、20万人からなるトルコ軍。彼らは1433年にコンスタンティノープルを陥落させ、東地中海の覇者となりつつあったオスマン帝国と、その友好国との連合軍である。イスラム教徒であった彼らからすれば、ロードス島は「キリストの蛇たちの巣」であり、東地中海の制海権を確保するためには、陥落させなければならない土地であった。
西欧からの援軍は期待できなかった。理由は次の二つからなる。
(1)ビザンティン帝国を滅ぼした大国オスマンに対するべく、西欧では中央集権国家による再編が行われていた。王侯たちは、覇者となるべく激しい争いを繰り広げていた。東地中海の島の騎士団を助ける余裕などなかった。
(2)ルターによる宗教改革が始まった時代であった。1517年にルターが発表した「95ヶ条の論題」は、それまでの西欧のカトリック支配を大きくゆるがすものとなる。ローマ法王を頂点としたカトリック教会にとって、東地中海の戦いよりもはるかに重要な問題が起こっていたのだ。
500人余りの騎士と述べたが、実際の戦力には、傭兵1500人余り、住民約3000人が加算される。それでも、約5000人である。ロードス島防衛軍は、援軍を期待できない状況で、20万人のトルコ軍を迎え撃たなければならなかった。
トルコ軍の地面をゆるがすほどの大砲と10万以上の兵士たちを前に、騎士たちはきらびやかな甲冑姿で城壁に立つ。生家の財力を示して華麗を競った甲冑は、しかし、馬上でこそ威力を発揮できるのだった。城壁の上という限られた足場では、甲冑姿はただのデモンストレーションの効果しかない。

トルコ軍による砲術と人海戦術は、騎士というユニットの戦術的価値を低下させた。時代は、騎士に活躍の機会をもたらさなくなったのである。

そんな時代の流れを知りつつも、騎士たちは城壁に立ち、やがて陥落する運命にあるロードス島を守るべく戦う。ある騎士はこう語った。
「人間には誰にも、自らの死を犬死と思わないで死ぬ権利がある。そして、そう思わせるのは、上にある者の義務である」
作者の塩野七生は「ローマ人の物語」で有名な、イタリアを中心に描く歴史小説家。彼女の作風は、手に汗をにぎる迫真の描写ではない。読者にできるだけ多くの歴史背景を提示し、その意義を説く手法である。余談だらけの司馬遼太郎と同じく、塩野史観には学者内では不評だが、読者の想像力を喚起させる道具として、彼女の提供する情報は説得力がある。
「コンスタンティノーブルの陥落」「レパントの海戦」とならび三部作と称される本書だが、本書を最初に読んでも問題ない。登場人物一人ひとりの感情描写には成功しているとは言いがたい作品だが、西欧から遠く離れた離島で、キリスト教というみずからが属する文明のために、数十倍の兵力を前にしても誇りを失わなかった男たちの物語は、西欧の知るべき歴史の一つであろう。




ロードス島は、エーゲ海の南、地中海の東、トルコの南西に位置する。
面積は1,398km²。沖縄本島とほぼ同じ広さである。1522年の攻防戦の際は、もちろん、聖ヨハネ騎士団は全島を防衛したのではなく、島の北端にあるロードス港とその一帯を城壁で囲み、篭城戦法を取ったのである。1433年のコンスタンティノーブルの陥落と、1480年のオスマン帝国による侵攻の教訓から、1522年の本格的な侵略戦争に備えて、聖ヨハネ騎士団ロードス島を堅固な城塞都市へと変貌させた。その遺跡は、現在でも観光名所として残っている。
さて、11世紀末から13世紀まで断続的に続いた「十字軍」については、キリスト教の罪悪の一つとして名高いが、特に、十字軍だけが野蛮だったわけではない。
例えば、ロードス島聖ヨハネ騎士団の主な活動は「海戦」であったが、その多くは商船を標的にした「海賊」行為であった。聖ヨハネ騎士団大義名分としては、イスラム船の漕手が奴隷化されたキリスト教徒であったため、それを解放するという目的があった。なお、騎士団の船の漕手は、当然のことながら、イスラム教徒の奴隷である。そのような時代であったのだ。
そんな聖ヨハネ騎士団の海賊行為を、もちろん、イスラムの雄となったオスマン帝国が見過ごすはずがなかった。ただし、1480年の侵攻では、10万の兵を向かわせながらも失敗に終わっている。1522年の際は、オスマン帝国の最高指導者であるスルタンが直々に参戦するという、国家をあげての戦争となった。
その防衛戦は攻守双方、もてうるだけの作戦と技術を駆使したものになった。オスマン帝国は得意の人海戦術で、死者を数万出しながらも、退却することは露ほどにも考えなかった。攻城戦は長引けば長引くほど不利になる。援軍も期待できないとなれば尚更である。ついには、騎士団内部でのスパイ疑惑が発生する。士気は少しずつ衰えていく。
それでも、聖ヨハネ騎士団ロードス島から撤退することは許されなかった。東ローマ帝国であるビザンティン帝国イスラム国家に滅ぼされた今、東地中海でキリスト教勢力は、ロードス島だけになったのである。
宗教とは民族を超えた文明にほかならないと僕は考えている。ゲルマン民族が本格的に侵攻した4世紀から、当時のローマ帝国の人々は、ゲルマン民族キリスト教化することで同化をはかった。しかし、十字軍以降に相手となったのは、イスラム教徒である。宗教の違いは、双方が同質化できないことを意味する。十字軍から始まった、イスラム教とキリスト教の戦いは、そんな二大文明圏の激突であった。信じる神が云々、教義が云々というのは、表層的な物の見方にすぎない。キリスト教徒はイスラム教徒に戦いを挑み、完膚なきまでに叩きのめされた。ロードス島攻防記もその一例である。
この、ロードス島攻防記の時代は、支配者がほとんど二十代であったという事例がある。ロードスを攻めるオスマン帝国レイマン一世は、まだ28歳であった、文明変革期に入っていたのだろう。
しかし、この攻防戦の騎士たちは、甲冑を脱ぐことはなかった。彼らは、自分たちが、「青い血」、つまり特別な血が流れていることを自認し、ゆえに最後まで誇りを貫き通した。
行間から、そんな男たちの矜持が伝わっている一冊である。