「アメリカ下層教育現場」―格差社会の実態 (評価:A)

アメリカ下層教育現場 (光文社新書)

アメリカ下層教育現場 (光文社新書)

おすすめ度:★★★★☆


本書の著者は、教員免状を持たないフリーライターである。そんな彼が「チャーター・スクール」の非常勤講師を数ヶ月間勤めることになった。その経験をもとに書かれた本書は、我が国の教育を考える上でも、参考になることだろう。なぜなら、著者が教えた現場は、アメリカ下層社会の落第生が集まる学校であったからだ。
チャーター・スクールは、正規の学校ではない。教師一人あたり20人ほどの生徒を担当する、地域福祉の色彩が濃い学校である。Wikipediaでは公設民間運営校と形容されている。専門学校の高校版といえばわかりやすいかもしれない。本書の舞台であるアメリカ・ネヴァダ州のチャーター・スクールは四年制で、中3から高3までの生徒を教えている。
設立理念はさておき、今ではチャーター・スクールは、公立高校に入学できなかった者、中退した者を収容する教育機関に成り果てている。彼らの授業態度は挑発的かつ無気力であり、著者の前任者は一ヶ月で逃げ出したという。
もちろん、アメリカでは、体罰は許されない。即、逮捕され、留置所に入れられる。保釈金は最低で1500ドル。安い金額ではない。
著者が任された講座は「日本文化」。若者の間では、アニメやゲームにより日本ブームが起こっている。日本語を話すことがカッコイイと思われている。そんな彼らのニーズにこたえるべく、設立された講座である。
しかし、彼らに「日本文化」を教えることは困難だった。手塚治虫の「ブラックジャック」を見せても集中力が持たない。口々に「ドラゴンボールがいい!」と語りだす。パールハーバー、つまり真珠湾についての知識すらない。日本とアメリカが戦争をしたことを知っていた者は半数にも満たなかった。

そんな「日本文化」講座の「中間テスト」として、著者が用意した設問は次の三つのみ。

問1 キミの名前をカタカナで書きなさい。
問2 キミの干支を書きなさい。
問3 10年後のキミに手紙を書きなさい。

これが、高校生相当の生徒へのテストなのである。
アメリカはれっきとした学歴社会である。平均生涯取得は、大卒が250万ドルで高卒が140万ドルだという。こうして、格差はどんどん広がっていく。
(我が国の場合 →サラリーマン生涯賃金リスト|年収ラボ
著者が教えた19名の生徒のうち、実の両親と暮らしているのは、わずか一人だった。彼らの多くは、放課後に仕事に出ている。家庭崩壊は子供の教育力低下に直結する。アメリカの離婚率は50%をこえている。
(なお、日本の離婚率もいまや30%に達している)
そんな彼ら相手に、著者はいつしか「日本文化」の枠をこえたことを教え始めるようになる。本書では、一人ひとりの生徒の様子が親しみをこめて記されている。生徒たちも少しずつ授業態度を改めていく。
我が国のニートや引きこもりを「平和ボケ」と一蹴する著者の力強い文体は、読む人を選ぶかもしれない。しかし、フリーライターという第三者の立場で書かれているからこそ、本書はアメリカの下層教育の実態を雄弁に伝えてくれる。



本書の舞台となるのは、アメリカのリノという都市で、同じネヴァダ州のラスベガスと同じく、カジノの街として知られる。そのため、ダウンタウンではドラッグ売買と売春が横行している。チャーター・スクールの生徒たちにとって、もはやそれらは日常の光景となっている。
そんな都市に居を構える本書の著者は、フリーライターとして、スポーツ選手を取材している。しかし、新聞社と契約したメジャーリーグの通信員は、とてもオカネにならなかったらしい。約束された給与も、出張経費すらも入金されない。問い質すと「お前の日給は5000円になった」という一方的な通告を受けた。著者は言う。「フリーライターは使い捨てライターのようなものだ」
学歴がなく、職を転々としてきた著者にとって「チャーター・スクール」の非常勤講師という仕事は、ライターとしての視野を広げるチャンスに思えた。ネヴァダ州立大学の恩師からの依頼ということもあり、著者は積極的にその仕事にのぞもうとする。
ところが、初日の教室で見た光景は、UNOをする者、クラスメイトの髪をとかす者、MP3プレイヤーを聴きだす者、眠りだす者、無言で教室から出ていく者……。学級崩壊という言葉もなまやさしい実態だった。著者は叫ぶ。「この教室では『日本文化』のほかに、規律も学んでもらう」

このチャーター・スクールの設立目的は、落第生にせめて高校の卒業証書を渡して箔をつけてやろう、というものであった。公園で課外学習と称してスポーツをするのも立派な授業となっている。それすらも出席しない生徒が後をたたない。「日本文化」という講座が設けられたのも、何とかして生徒に授業を受けてもらおうと考えた学校側の苦肉の策なのだった。
そんな彼らだが、「ブラックジャック」を見せて、手塚治虫がアニメ界のパイオニアであることを語っても、関心を示さない。日本のアニメが好きでも、アニメの歴史には興味がないのだ。
しかし、自分に関わることには目を輝かせた。例えば、十二支である。特に「丙午(ひのえうま)」の迷信については、多くの女子の興味をひいた。少なからずの生徒が、午年生まれだったからである。それを知った生徒がある女子に「やっぱり、お前は悪魔の子だ!」と言う。二人は異母兄妹だった。家庭環境の劣悪さがこんなところにも出てくる。
浦島太郎の絵本や折り紙を教えながら「これが高校生の授業か」と落胆する著者。しかし、授業は好評で、出席率も高くなった。前述した三問からなる中間テストも、彼らなりの言葉で懸命に解答していた。本書では、生徒の主な解答も掲載している。真面目な答えの中に、貧しさにあえぐ家庭環境が顔をのぞかせていたりする。アメリカの格差社会を知る上で、そんな彼ら自身による言葉は非常に興味深い。
こうして、順調に進んでいるかのように思えた「日本文化」の講座だが、それを良しとしない者がいた。「評価が甘すぎる」と校長は言った。この校長は、著者に鍵を持たせず会議にも参加させない。他の非常勤講師とあからさまに差別した対応を見せている。理由は著者が日本人だからである。著者以外の教師はすべて白人。それがアメリカ社会の実態なのだ。
しかし、全員に卒業証書を授与することを目的に設立したチャーター・スクールであるはずなのに、厳しく評価しろというのである。著者は授業に出席しない生徒にも声をかけたりしていたが、そういう行為はまったく評価されない。そして、一方的に、今期かぎりで「日本文化」の講座を終了することを告げる。生徒の望みで「日本文化」という講座を設立したものの、校長は日本文化を理解しようとしなかったばかりか、日本人を講師として受け入れることにすら耐えられなくなったのだ。
こうして、教える時間が限られた著者は「日本文化」にとどまらない授業をするようになる。著者の尊敬するボクシングの言葉を皆に読ませたりもした。
"Your wheel squeaks long enough, somebody comes along and puto oil in."
(お前がキューキュー軋む音を立てて車を走らせていたら、きっと誰かがオイルを入れに助けに来てくれる。人生とはそういうもんだ)
著者は高校時代の同級生の話もした。その同級生は、2002年にワイドショーをにぎわせた強盗殺人の犯人である。「おとなしくて目立った存在ではなかった」かつてのクラスメイトが、どうしてこのような犯罪行為に走ったのか。著者は彼と何度かEメールを交わし、その内容を元に授業を展開する。
これらの講義内容は文章で読むだけでも迫力がある。日本の非常勤講師も勤めてもらいたいぐらいだ。著者はできるかぎり生徒を理解しようとつとめたし、生徒も最初とはうってかわった態度で、著者の言葉に耳を傾けた。
こうして「日本文化」の講義を終えた8ヵ月後、著者はかつての生徒と再会する。そこで知らされたのは「半数が退学した」という事実だった。著者がどれだけ熱意をもって「日本文化」以外のこと、せめて高卒の学歴は取得してほしいと教えた言葉も、結局は彼らには届かなかった。このチャーター・スクールで、卒業証書を受け取る者は半数以下。他の高校に転入した生徒もいるが、ごくわずかである。
生徒一人ひとりの授業態度やテストの解答をふんだんに掲載しているため、単なるノンフィクションとしてだけではなく、教育心理学という観点からも楽しめる。もちろん、一人だけの日本人講師だった著者にできることはかぎられており、この「日本文化」の講座が成功したとはとても言えないだろう。だが、それだからこそ、ビジネスという観点を抜きにして、純粋に子どもたちの教育を考えるうえで、非常に役立つ一冊といえるだろう。



また、本書の三分の一は「日本文化」の非常勤講師の後に参加したボランティア「BIG BROTHER & BIG SISTER」の行動の様子も語られている。これは、問題のある生徒一人ひとりにボランティアの同性の大人をつけるという、日本ではなじみのない制度である。主に昼のランチと遊びの相手をする。このようなしかるべき組織の属した外部の大人がいることは、アメリカの小学校では珍しいことではないらしい。
「子どもたちの自主性」という言葉で、大人の監視しない時間を設けることは、アメリカでは間違ったことと見なされている。確かに、子どもたちばかりだと、親は自分の子どもの言葉を信じるしかない。モンスター・ペアレントなどの問題も、大人の視点が教師だけでは限界に達していることの現われではないだろうか。