「テラビシアにかける橋」―開かれたセカイ系のバッドエンドから (評価:B)

テラビシアにかける橋 (偕成社文庫)

テラビシアにかける橋 (偕成社文庫)

おすすめ度:★★★★☆
【映画】テラビシアの橋 予告編
【映画】テラビシアの橋 予告編(1/26から全国で公開)
ある映画の予告編に興味を持った。
十歳の男女が「テラビシア」という仮想の王国を作る物語である。二人は国王と女王になり、いろんなものに名前をつけ、いろんな物語を生む。もちろん、それは二人だけの秘密である。
ところが、その少女が事故死してしまうのだ。果たして、パートナーを失ったとき「テラビシア」という仮想王国はどうなったのか。それを描ききったことが、「テラビシアにかける橋」のオリジナリティであり、他の物語とは一線をかくする魅力である。
涼宮ハルヒ」シリーズなどのライトノベルを読むようになって「セカイ系」という言葉を知った。主人公の恋愛や勝負に、世界の行方がゆだねられているという展開が、ライトノベルや漫画で流行しているらしい。
(参考 →セカイ系 - Wikipedia
この「テラビシアにかける橋」は、事実上の仮想王国の創始者である少女を事故で失う。「テラビシア」は少女の死とともに、喪失してしまうのか。「セカイ系」では決して描くことのできないものが、この物語にはあると思った。映画は26日公開なので、まず原作を読むことにした。

この本を読んだ子どもたちの多くは、少女の事故死とその後の展開が納得いかなかったという。当然だろう。しかし、これは、避けることはできない展開だった。
なぜなら、作者の次男は、ガールフレンドを落雷による事故を亡くしてしまったからだ。作者はそんな不幸に襲われた息子の悲しみを癒すべく、この本を書いたといっていい。そのため、本書は次男と若くして死んだガールフレンドに捧げられている。
ヒロインの死を前提としながらも、それを悲劇としてではなく、そこから生きる道を見いだす目的で作られたこの物語の結末は、ぜひとも多くの人に知ってほしい。
ただし、本書の訳はつたない部分が目立ち、なかなか感情移入することができなかった。児童文学とはいえ、ちょっと読むのに骨が折れた作品であった。


この本が刊行されたのは1977年のこと。当時の世相を反映した事柄が多くもりこまれていて、アメリカの子どもたちは我が身のことのようにこの作品を楽しんだだろう。そのため、現在の日本で読むうえでは、かなりわりきって読む必要がある。
あるアメリカの田舎町が舞台である。主人公のジェシーは十歳の少年で、四人の姉妹の間に生まれている。家は豊かではなく、父は朝早くからトラックを走らせてどこかに行き、夜遅くに戻ってくる。母と姉二人はTVを見ながら尽きることのないおしゃべりを続けている。それに耐えられない少年は、離れの牛小屋で手伝いをしながら、空想に思いをはせる毎日を過ごしていた。
そんな少年が住む7人家族の側に、新しい一家がやってくる。その一人娘は少年と同級生だった。髪は短く、いつもジーンズをはいている。少年は思った。「スカートすらも持っていない貧しい子なんだな」
ところが、少女は成績が良かった。利発で快活で、都会の匂いを感じさせる女の子。家が隣になったよしみで彼女は、少年に話しかける。少年は無視する。少年は十歳の男の子である。男子と女子が一緒に歩くだけで、いろいろ言われる世代である。男子と女子は対立していなければならないのだ。だが、いろんな学校内の事件を通じて、二人は互いを認めていく。性別をこえて、二人が親友となったのは、それからすぐのことだった。
こうして、二人は誰も立ち入らない森林に「テラビシア」という仮想の王国を作ることにする。発案者は少女である。少女は実に多くの本を読んでいて、その話を少年に聞かせてくれた。それを「テラビシア」でもどんどん採用した。最初は「国王」がどんなものかも想像できなかった少年も、だんだんと「国王」らしくふるまおうとする。二人は「テラビシア」の支配者であり創造主であったのだ。
といっても、「テラビシア」についての描写は、この本の中心ではない。やはり、十歳の少年少女の思いつきである。本の借用で彩られたその空想の王国は、言葉にすると神聖さが消えうせてしまうものなのだろう。二人は二人なりに真剣に、その王国を愛し、その秘密を共有することで、互いを信じ合った。二人は学校でも行動を共にするようになる。みんなに冷やかされても少年は動じなかった。少年にとって彼女は「テラビシア」のパートナーであり、それを「ガールフレンド」という安っぽい言葉で表現されたくなかった。
しかし、少女に死が訪れる。この少女の死に対する少年の描写は見事だ。
翌朝、母親はとっておきのホットケーキを用意する。少年はおいしそうに食べる。それを見て、姉は言う「へいきなの?」。少年は言う「なにが?」
正装に着替えた父親が言う「隣におくやみに行かなければな」。そして少年を向いて「おまえもいっしょにいったほうがいいんっじゃないかな? あそこの女の子をほんとうによく知っていたのは、おまえなんだからな」
少年は父親の言葉が理解できずに、こうたずねた「女の子って、誰のこと?」
少年は少女の死を受けとめることができなかった。まさか、少女がいなくても世界が続くとは、思いもしなかったのだ。しかし、実際に少女がいないまま、世界は動きつづけていた。少年は錯乱する。
その後の大人たちの忍耐強く優しい態度が通じて、少年はようやく少女の死を受け入れた。そして、それとともに思い出したのだ。少女と少年の二人きりの秘密、仮想王国の「テラビシア」を。
もし、恋愛小説なら、「テラビシア」に少女の墓を作って泣き叫んで終わりである。しかし、この本ではそこが異なる。「こんな結末は認めない!」と多くの苦情が殺到したこの本のエンディングは、僕にはとても感動的だった。
前述したように、この本は70年代のアメリカの世相も伝えてくれる。少女の家庭は両親ともに著述業に携わっている。二人は都会で娘を育てることに危険を感じ、田舎町に引っ越してきたのだ。両親は娘にファーストネームで名前を呼ばせている、教会には行かせない、クジラは人類の友達であることを力説する、などなど、当時のアメリカの知識人層の考え方がよくわかる。なお、少女の死とともに、二人は田舎町から引き上げる。娘もいないのに田舎にいることに価値を見出さなかったからだ。この知識人家庭の描写は、いろいろ考えさせられるところが多い。
そんな家庭に育った少女と、田舎生まれの七人家族の少年との友情は、ときどき喜劇的ですらある。一番、面白かったのが、少女が復活祭の教会に行くところ。自分の家族は行かないので、少年の家族の一員に強引に加わったのだ。そのときの少女の描写は輝いている。何も知らない読者は、まさかこの直後に、ヒロインが死ぬとは予想だにしなかっただろう。
ライトノベルの「セカイ系」を連想して読みはじめてみたが、「テラビシア」はやはり児童文学だった。例えば「赤毛のアン」では、アンがダイアナと「アイドルワイルド」という架空の世界を作った。しかし、二人とも忙しくなって、そのうち「アイドルワイルド」は置き去りにされる。アンは妖精の話をするのが好きだったが、ダイアナは身の回りのゴシップのほうを楽しいと思うようになる。中学生になると、アンはダイアナにそんな話をすることはなくなった。親友でもわかりあえないものがあることを知ったからである。
たいていの仮想王国は、時の流れとともに消え去ってゆく。しかし、この本はヒロインの死という最悪の悲劇をどう乗り切るかを中心に描かれている。この結末は、もっと多くの人に知ってもらいたいと思う。

【関連記事】
「今はまだ泣くべきときではない」 −映画「テラビシアにかける橋」感想(評価:A)