【レビュー】涼宮ハルヒの暴走 (紹介者:古泉一樹)

涼宮ハルヒの暴走 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの暴走 (角川スニーカー文庫)

 
 皆さん、こんにちは。古泉一樹です。この本では高校一年生ということになります。
 
 この作品はハルヒシリーズ五作目であり、二つ目の中編集です。収録しているのは三つの作品で、それぞれ「夏」「秋」「冬」の出来事を物語っています。簡単なプロローグが挿入されているので、読むのに困らないように工夫されていますね。シリーズの中編集の中で、もっとも完成度が高い作品ではないかと思われます。
 
 収録作品の題名は「エンドレスエイト」「射手座の日」「雪山症候群」です。
 
エンドレスエイト」は、夏期休暇後半のお話ですね。前半に行った夏合宿については「涼宮ハルヒの退屈」の「孤島症候群」をご覧になってください。今回も涼宮さんはいろいろやってくれます。この作品はアニメ化されていませんが、設定はゲームで使われているようですね。
 
 「射手座の日」は、コンピューター研究部が自作したゲームで対決するという話。アニメ化されているのでご存じの方が多いでしょう。今回は「彼」がある取り決めをしたおかげで、僕は純粋にゲームを楽しんでいるふうになっています。もちろん、背後ではいろいろと動いていたのですよ。しかし、涼宮さんよりも、長門さんの行動に注目すべきでしたね。くわしくは後述します。
 
 「雪山症候群」は、SOS団の冬合宿を取り上げています。今回も推理劇を実施するべく準備にいそしんだのですが、想定外の出来事に我々は巻き込まれてしまいます。
 
 この本は「涼宮ハルヒの暴走」というタイトルですが、長門さんの変化を中心に描かれています。夏、秋、冬と時間軸を移行させることにより、観察者であった長門さんが積極的に関与するようになったいきさつがわかることでしょう。前作である「涼宮ハルヒの消失」を読まないと、その経緯がつかめないと思いますが。
 
 それはさておき、中編集という媒体は僕にとって好ましいものではありません。
 
 なぜなら、中編は一つの出来事を中心に展開するので、部室での日常が描くことができないからです。
 
 長編の場合、複数の出来事の合間の様子も描写されます。そこで、僕が何をしているかは皆さんご存じでしょう。そう、彼を相手にアナログゲームを楽しんでいる姿です。ボードゲーム、といったほうがわかりやすいでしょうか。本来ならば、プレイしたゲームの紹介をこの場を借りて行おうと考えたのですが、残念ながら今作では僕が持参したゲームが取り上げられていないのです。コンピューター研究部の自作ゲームは出てきますけれどね。
 
 さて、なぜ、僕がアナログゲームを愛好しているか、ご存じですか?
 
 アナログゲームのほとんどはダイス、つまりサイコロを使って行われます。その確率論にもとづいてゲームデザインが構築されているため、ダイスの精度はきわめて純度が高いものにしなければならないのです。彼は何げなく振っているのですが、かなり高価なものを使用しているんですよ。
 
 だから、もし、その数値が許容範囲を逸脱し、ゲームデザインを崩壊させるようなことになれば、僕に何らかの特別な力が宿ったと考えるのが妥当です。ここでは詳しくいえませんが、僕にはその恐れが十分にあるのですよ。僕がアナログゲームをプレイするのは、自分に特別な力が備わっていないかの確認作業でもあるのです。
 
 それにしても、アナログゲームは奥が深いものです。皆さんの好きなRPGも、もともとはテーブルトークというアナログゲームから発展したことはご存じでしょうか? RPGだって最初はダイスをふって遊ぶゲームだったのです。アメリカではポピュラーな遊戯で、映画「ET」の冒頭シーンでも、子供たちがテーブルトーク(TRPG)をしている姿が映されていますよね。
 
 デジタルゲームの場合、ゲームデザインのルール構築よりも、乱数を操作することによって、ゲームバランスを調整するという行為がよく行われています。僕はこれが気に入らない。「ゲームの基本はダイスにあり」ですよ。もちろん、6の目が出たら一発逆転、1の目が出たらピンチという単純なものではないのです。6の目が出るときがあれば、1の目が出るときもある。それに対してどのように備えるべきかが大事なのですよ。
 
 デジタルゲームでは、6の目が出るまでリセットを押すという言語道断なプレイヤーが出てきます。しかし、それはゲームではありません。常に1の目にも6の目にも対処して戦略をねることが、ゲームの本質的な面白さなのです。TRPGは複数人で行うゲーム。一人のダイスの目でゲームをやり直すことは絶対にできません。そこが、TRPGの魅力です。なお、ここではわかりやすく六面体のダイスを例にしましたが、TRPGではあまり六面体ダイスは使用しませんので、あしからず。
 
 もっとわかりやすい例にしましょうか。皆さん、プレイングカード、日本語でいうところのトランプをお持ちですよね。ジョーカーがある場合は、それをのぞき、できるかぎりシャッフルしてみてください。そして、裏返して色を確認してください。すると、赤や黒が三枚以上連続していることを難なく発見できるでしょう。
 
 赤か黒になる確率は二分の一です。だからといって、赤の次は黒、黒の次は赤、となるのが常識ではありません。むしろ、赤→黒→赤→黒、と四枚交互に続くのは奇跡的といっていいでしょう。
 
 皆さんもいろんな選択肢を決めなければならないときがあるでしょうが、そのときは、このトランプを想像してみてください。三枚黒が連続しても、次に赤がくると絶対に言い切れるものではありません。四枚黒が連続しただけで、乱数が操作されていると結論づけるのは賢明ではないでしょう。もちろん、人類はその乱数をできるだけ意のままに操作するべく発展したわけですが、全ての事象の乱数を動かせるほど人類は万能ではありません。
 
 小説で語られる物語は、ダイスの精度に欠陥がある、つまりイカサマである場合がほとんで、そのイカサマの解明に字数を費やします。答えは簡単、そちらのほうがカタルシスを得ることができるからです。しかし、日常生活はきわめて精度の高いダイスで動かされているのです。
 
 それは、6の目が出ると途端に大金持ちになったり、1の目が出たら急にホームレスになるわけではありません。そうならないように、人間社会はルール作りがされています。昔は天候次第で飢饉となり多数の死者を出しましたが、現代の先進国では天候で餓死者が発生することはない。たとえ、1の目が出ても生きているように発展したのが文明社会というものです。アナログゲームをプレイすることは、そのような人間社会の根底にあるものを我々に教えてくれます。
 
 そんな魅力あるアナログゲームの先進国といえば、ドイツです。ドイツのボードゲーム文化は世界最高レベルにあり、「ドイツ年間ゲーム大賞」(Spiel des Jahres)を知らないアナログゲーム愛好家は存在しないといって良いでしょう。「カタン」など、日本でも知られるゲームもありますが、まだ認知度は低いですね。躍起になってリセットボタンを押しつづける日本の人たちを見るたびに、これらのアナログゲームの魅力を伝えたいと思うのですが。興味がある方は、ぜひ歴代の「ドイツ年間ゲーム大賞」作品をプレイしてみてください。
 
 このように、僕は自分の役割を果たしつつ、アナログゲームのすばらしさを伝えようと日々つとめているのですが、なかなかうまくいかないものです。彼は、ゲームデザインよりも勝敗にこだわりますからね。僕はいつも負けてばかりなのですが、それは僕がそれぞれのゲームデザイン、どのようなルールでバランスが調整されているかを知ることに関心を抱いているからです。僕はホスト役ですし、敗者となることで彼がゲームに対する興味を失わなければ、そちらの結果を良しとします。
 
 おっと、思わず話が脱線してしまいましたね。「涼宮ハルヒの暴走」の紹介に戻りましょう。この本の最重要人物は前述したように長門さん。もっとも印象的なのは「射手座の日」で、彼に許可を求めたシーンですね。これは「らき☆すた」というアニメの第16話でも、長門さんらしい台詞としてパロディ化されたので、ご存じの方が多いでしょう。
 
 この長門さんの態度は、特にこれからの我々の活動の大きな分岐点になっています。それまで、長門さんが自分の行動の選択を他者に委任することはありませんでした。そもそも、彼女はただの観察者にすぎなかったのですから、選択の必要性はなかったのですが。しかし、彼に指示を求めたということは、彼女が自分の意志を持ち始めたことにつながります。
 
 我々はこの変化に注目していませんでした。それを知ったのは「雪山症候群」と題される冬合宿でのトラブルに巻きこまれたときのことになります。そこで「消失」で描かれた出来事を知ることになるのですが、ここで、遅ればせながら、僕も一つの決断をすることになります。
 
 あらためて考えると、今後の危機を考えるうえで、彼と長門さんとの関係が発展したのは好ましいことであったのかもしれません。機関の力を持ってしても、僕の立場でできることは限られていますから、長門さんの協力を万全なものにする必要はあったでしょう。
 
 しかし、困ったことに、彼は長門さんと結託するとともに、彼なりのバランス感覚で、朝比奈みくるにも加担するようになったということです。これは好ましいものではない。彼の行動力にだって制限があります。朝比奈みくるに深入りすることで、彼自身が磨耗してしまっては本道に外れるではありませんか? まったく、「やれやれ」と言いたいのはこちらの台詞ですよ。
 
 我々は朝比奈みくるを軽視しているつもりはありません。彼女は、涼宮さんと彼との緩衝材のような役割です。二人は必要以上に朝比奈みくるに関与したがりますが、そうすることで互いにバランスを取っているのだと思います。
 
 これから、我々の世界は、比較的、安定したものになります。しかし、いずれくる困難に備えて、彼が長門さんとの関係を確立させたのが、今作の意義といえるでしょう。