『ドーナツの穴だけ残して食べる方法』大阪大学ショセキカプロジェクト(評価・B)

 

ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義

ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義

 

答えのない奇問に、大阪大学の教員が真面目に答えたらどうなるか?
ドーナツの穴を通じて見える、それぞれの学者の思考経路を楽しむ一冊。
 

 こんなアメリカンジョークがある。
「あまりにもお腹が減っていたので、ドーナツの穴まで食べちゃったよ」
 得意げにそんなことを言われると、思わずたずねてみたくなるものだ。
「じゃあ、ドーナツの穴だけ残して食べる方法はあるのかよ」
 この問いに答えなどない。結論からいえばこうなる。
「ドーナツの穴は食べ物ではない。ドーナツの穴は食べられない観念である。だから、その質問は成り立たない」
 それでも、インターネットでも話題となったように、このパラドックスには不思議な魅力がある。
 

 本書は大阪大学の教員がこの奇問に真面目に取り組み、執筆したものだ。いずれも、自分が研究している分野を前面に押し出した内容である。だから、自分がどの分野に向いているかを知る指標として役立つかもしれない。
 あるいは、難問面接をする担当官になった気持ちで読むのもいいだろう。このような質問で求められるのは「その質問はパラドックスである」という正論ではなく、それぞれの背景をいかして設問を分析する能力ではないだろうか。例えば、野球選手の経験談が野球を知らない人にも説得力があるように、自分の「得意分野」の応用力が難問面接では試されているのだ。
 答えのない難題が自身にふりかかることは誰にでもある。そのときに、頼りにすべきものはなにか。他者の協力を得るためには、自分にも協力できるものがなければならない。本書はそんな他者に説得力のある「得意分野」を持つ大切さを教えてくれる。
 すでに、この設問については、ネットでコピペが流布されているが、本書には簡略化される運命のコピペにはない読みごたえがある。それぞれの執筆者の思考経路をたどる楽しみは、ネットでは味わえないものだ。
 

 昨今、大学教育の意義が問われている。専門学校のような「就職養成所」となるべきだという暴論もきかれる。しかし、大学教育には「思考する持続力を鍛える」という役割がある。少子高齢社会となり、前例のない世代構造に我々は生きている。そこで問われるのは、難問から目をそむけずに考え続ける能力ではないだろうか。
 本書の編者は「大阪大学ショセキカプロジェクト」であり、大阪大学の学生が約2年かけて、企画・立案・広報・デザインを行っている。大学教育が社会で実用的ではないと指摘されることが多い昨今、様々な学部の教員に執筆を依頼した「越境学問」である本書は、大学機関という知恵をいかす可能性を感じさせるはずだ。
 

 

(1)執筆陣一覧とその内容

 

 本書の執筆陣は、以下13名である。
 

大阪大学大学院経済学科研究科・准教授 松村真宏
大阪大学大学院工学研究科・エネルギー工学専攻・准教授 高田孝
大阪大学大学院文学研究科・准教授 田中均
大阪大学大学院理学研究科数学専攻・准教授 宮地秀樹
星ヶ丘厚生記念病院院長相談役・医学博士 井上洋一
大阪大学大学院言語文化研究科・教授 杉田米行
大阪大学大学院言語文化研究科・准教授 大村敬一
大阪大学大学院工学研究科応用化学専攻・准教授 木田俊之
大阪大学大学院国際公共政策研究科・教授 大久保邦彦
大阪大学学際融合教育研究センター・准教授 松雪輝昌
大阪大学グローバルコラボレーションセンター・准教授 宮原曉
大阪大学未来戦略機構第一部門・特任教授(常勤) 瀬戸山晃一
大阪大学大学院国際公共政策研究科・准教授 松本充郎
 

 ただし、すべての執筆者が「ドーナツの穴を残さずに食べる方法」について回答をしているわけではない。「ドーナツ」にまつわる話だけで終わっているものも少なからずある。
(これは執筆者の責任というよりも、この奇問の限界を示しているといえるだろう)
 

 それでも、本書にはネットで流布されるコピペにはない魅力がある。
 

 この設問にまつわる有名なコピペは2010年3月14日に2chに投稿されたものであるらしい。
 

物理派――巨大なドーナツを光速で回転させることにより穴が空間的に閉じ(ry)
化学派――穴に空気と違う気体をつめれば?
数学派――非ユーグリッド幾何学的には可能
統計派――100万回食べれば1回ぐらい穴だけ残っているかもしれない
地学派――半減期を調べれば穴の存在を証明できるかもしれない
合理派――ドーナッツ食べた後に穴の存在を証明すればいいんじゃね?
芸術派――私が存在しない穴を写実することでなんとかできないだろうか?
言語派――問いかけが漠然としていて厳密な対策が不可能
哲学派――穴は形而上的な存在の定義外にあり、超空間的な(ry
懐疑派――そもそもドーナッツの時点で怪しい
報道派――まずはドーナツに穴が空いているか世論調査すべき
政府派――真に遺憾であり今後このような事態が起こらぬよう最大限の努力を(ry
外交派――食べてやってもいいけど代わりに援助基金を増設しろ
一休派――では穴だけ残しますからまずは穴の存在を証明してください
 

http://2chcopipe.com/archives/51438064.html

 

 ネットのコピペというのは簡略化される運命にある。その過程は切り落とされ、わかりやすい結論ばかりがひとり歩きしてしまう。
 

 しかし、本書ではそれぞれの執筆者が、じっくりとドーナツの穴に向き合っている。わざわざドーナツのために、プルーストや冷戦構造や相対性理論を持ち出すところが本書の面白いところなのだ。
 

 本書は大学一年を読者と想定しているらしい。大阪大学一般教養科目を受ける気分で楽しめばよいのではないか。
 

(2)僕の回答例

 

 では、本書を読んだ僕が、この設問に回答するとどうなるか?
 

Q:ドーナツの穴だけ残して食べる方法を答えよ。
 

A:
 この設問は、論理階型のレベルが混同されているパラドックスである。
 「ドーナツの穴」は食べることができない観念である。
 食べることができない「ドーナツの穴」を残すことができない。
 ゆえに、この設問は錯誤であり、成り立たない。
 

 ただし、その方法がないわけではない。
 

 例えば、ドーナツ型枕と呼ばれるものには、中央にくぼみがあるだけで穴があいていないものがある。
 その「ドーナツ型枕」型ドーナツを作り、その中央部分だけを食べ、穴をあける。
 すると「穴だけ残して食べた」と言えなくはない。
 

 穴がいなくてもドーナツ型と認められるものはある。そのような法的判例がある。
 その穴のあいていないドーナツの中央部分を切り取り、その部分を「穴」と呼び、それ以外の部分を食べる。ただし、これは同じ概念を別の意味で使った詭弁である。
 

 そもそも、ドーナツの穴は空である。かじられて消えたのは穴そのものではなく、穴を囲っていた壁である。ドーナツの穴が消えたのではなく、周囲の壁が消えただけである。穴そのものは消えないように、人の心にある理想も消えることはないのだ。自分が赤ん坊に戻ることはないが、心の中の理想郷が消えることがないのと同様に。
 

 なお、次元を超えれば、新たな可能性が出てくるかもしれない。
 我々は認識できるのは3次元空間であるが、最近の超弦理論では10次元以上の空間があることが示唆されている。3次元における「穴」は、高次元空間においては別の形であるかもしれない。
 

 工学的にいえば、現在の加工技術でドーナツの穴の壁を残すのなら、スパッタリングという真空蒸着となるだろうか。ドーナツと白金を真空容器の中に入れ、スパッタリングを行い、有機溶剤を用いると、厚さ0.000000001mm程度の被膜だけ取り残すことはできる。
 

 このように、設問自体は物質と観念が混同したパラドックスにすぎないが、その二つの自由に行き来する能力が人類にはあり、それが文化の発展をもたらしたという経緯がある。錯誤する能力から何かを生み出すことこそ、私たち人類の未来の可能性を指し示してはいないだろうか。
 

 

 ただし、この回答例は、本書の言葉を借りただけであり、僕の個性がゼロなので、面接では受からないだろう。人の心を動かすのは、いつだって正論ではなく感情論であり、大切なのは「正しさ」よりも「その人らしさ」なのである。
 

(3)まとめ

 

 前述したように、本書の執筆陣のすべてが「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」について回答しているわけではないのは、この設問の限界を示している。
 だから、読者からすれば「ドーナツ化現象のことを語られても……」とか「ドーナツ型オリゴ糖の穴が有効活用されている話は面白いけれども……」という不満点がある。実際、興味のない分野は読み飛ばす箇所が少なくなかった。
 本書を読み進めば「言葉のアヤにすぎないよなあ」と感じるところもある。理系よりも文系に向いている設問なのだ。せっかく、大阪大学の教員たちに協力を要請するならば、もっとふさわしい題材があったのではないかと読み終わってからは感じる。
 ただし、一般向けの書物として、大学単位で各学部を横断して、同じテーマを語ることの面白さには可能性を感じた。評価はB。
 

ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義

ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義