インド系ケニア人が語るアフリカ独立の影 ― M・G・ヴァッサンジ『ヴィクラム・ラルの狭間の世界』(評価・A+)

 

ヴィクラム・ラルの狭間の世界

ヴィクラム・ラルの狭間の世界

 

詐欺師と弾劾されたインド系ケニア人を語り手に、
アフリカ独立前後の格差社会を、巧みな構成で映し出した小説。
 

 本書はインド系ケニア人の物語である。僕にとっては、何の接点もない話だ。
 では、なぜ本書を手にしたのかといえば、今年3月16日の新聞書評でこう紹介されていたからだ。
政治小説歴史小説教養小説、恋愛小説のすべてがここにはある」(評者・小野正嗣
 ここまで大仰な紹介ができる本はそうはないだろう。その言葉にひかれて、僕は未知のアフリカ文学へと手を伸ばしたのだ。
 その期待は冒頭から裏切られる。「マウマウ団」という聞きなれぬ単語が、何の説明もなく出てくるからだ。
 イギリスの東アフリカ植民地の中心地であったケニアの独立経緯は、英語圏の人々は多くを知っているだろう。しかし、僕はケニアといえば、箱根駅伝の留学生ランナーしか思い浮かばない日本人である。
 それでも、主人公ヴィクラムの語り口に、いつしか僕は魅せられていった。本書はヴィクラムの回想録という体裁だが、彼は当事者であることを頑なに拒否し、観察者に徹しているのだ。自分の物語でありながら。
 その理由は読み進めるとわかる。ケニア独立の混乱のなか、彼のまわりの少なくない人が消える。死ぬのではなく、消えるのだ。植民地下の黒人たちがいなくなっても社会問題とはならないのである。そして、独立後の黒人政府での汚職の蔓延。アフリカ独立の父たちが、その国家の貧しさからは信じがたい財産をたくわえていたことは、現在では知られている事実である。その中でヴィクラムはいつしか感情を見せないようになったのだ。
 ヴィクラムはインド系ケニア人だ。「白」人でも「黒」人でもないどっちつかずの立場である。彼はそれでもケニア人であり続けようとした。彼のケニアに対する思い入れは、その地を知らない僕の心をも揺さぶった。
 小説としての読みごたえは十分だ。少年時代から青年期、それぞれが家庭を持つに至るまで、物語は幾重の悲喜劇を重ねながら進んでいく。そして、それを語り終えたとき、ヴィクラムはついにみずから主体者となる。
 優れた小説は、どんな事典にも勝る。アフリカのことをまるで知らない僕だが、本書を通じてその世界が見えてきた。最初は読みあぐねるだろうが、印象的な場面は多く、読後は様々な光景が目に浮かぶはずだ。知らぬ国の文学だからこそわかる「人間の物語」がここにある。
 



 

◆紹介

 

(1)ケニア独立を追体験することで実感できるアフリカの格差社会

 

 本書は「アフリカでもっとも汚職にまみれた、異様かつ卑劣なまでに狡猾な詐欺師」とされたヴィクラム・ラルというインド系ケニア人の回顧録という体裁をとっている。
(本書はフィクションで、ヴィクラムは実在する人物ではない。ただ、ケニア初代大統領のジョモ・ケニヤッタや、その政敵J・M・カリウキは登場する)
 アフリカの政治家が巨額の富を蓄えているというニュースは決して珍しいものではない。世界中の善良な人々が、飢餓で苦しむ子供たちを救おうと募金しているのに、その国のトップは贅沢品に身を包み、立派な墓を建てているのである。その理不尽について考えたい方は、本書を読まれると良い。
 ヴィクラムの言い分はこうだ。「私の成功の秘訣は、倫理的判断を避けたことにある」。または「私がやらなくても、他の誰かがやっていたことだ」
 本書でヴィクラムは一切の自己弁護をしない。彼はただ「自分が倫理観が欠如した理由」を少年時代からさかのぼって語っているだけである。
 だから、本書の読書体験は「のめりこむ」というものではない。醒めたヴィクラムの視点から、ケニアという東アフリカの国の独立前後の社会を追体験するという物語なのだ。
 本書を読み終えれば「国民が飢餓で苦しんでいるのに、国のトップは私腹を肥やしている」というアフリカ社会の構造が実感できるようになるはずだ。同時に、それが小説という体裁でなければ、伝わりがたい問題であるということも。
 

(2)理想をつらぬくためには多大な犠牲が必要とされた時代

 

 本書は小説として構成が優れていて、ひきさかれた愛、ふみにじられた友情、裏切りの連鎖などの物語が幾重にも積み重なって語られる。数学の得意なインド人の血をひいているせいであろうか。
 例えば、ヴィクラムの無二の親友や、彼の母方の叔父は理想主義者だった。結果として、彼らは理想を追求するために、大事なものを失ってしまうことになってしまうのだ。
 ヴィクラムは彼らを「ナーバス」と称する。日本語のカタカナでは「神経質」という意味で使われるが、英語の「nervous」には「神経過敏」という意味もある。
(なお、本書は英語で書かれている。ケニア公用語は英語とスワヒリ語だが、高等教育は英語で行われる)
 社会に過敏に反応した結果、彼らは何かを犠牲にしてしまう。だから、ヴィクラムは彼らに内心では共感するものの、行動に起こすことはない。
 もちろん、それでヴィクラムが大人になって行った不正行為を正当化することはできないが、ヴィクラムのような存在を産んだアフリカ社会の土壌を、読者は知ることができる。
 なお、そんなヴィクラムの「主役になろうとしない」性格は、恋愛でも同じで、彼の童貞喪失場面は、本書で一番の笑いどころである。そんなヴィクラムがどのような家庭を築いていくのかも、本書を読む楽しみの一つであろう。
 

(3)主人公一家の背景から見える、インド人と東アフリカ

 

 ヴィクラムはインド系移民三世である。なぜ、インド人がアフリカにいて、少なからずの影響力を持っているかについては、ヴィクラム・ラル家の三代記を知ればわかる。
 ヴィクラムの祖父は、イギリスがケニアに鉄道を敷設するために募集した苦力(クーリー)の一人である。イギリスの植民地であったケニアでは、同じ植民地のインドに労働力を求めた。彼らインド人労働者は東アフリカの地で、ライオンの犠牲になりながら、現地部族の襲撃に遭いながら、イギリス人のために汗水たらして働いた。
 鉄道が敷設した後、彼らの多くはインドに帰らなかった。それは支配者であるイギリス人がインド人の有用性に気づいたからである。自分たち白人と、現地の黒人との、いわばクッションとして、インド人は利用された。例えば、黒人には入れない店でもインド人は入ることができる。ただし、座れる席は限られている、といった具合。
 ヴィクラムの父は、食料品を営んだ。白人向けの高級品もあつかう。彼は根っからの「仕事人間」であり、得意先の白人に追従的な姿勢もとることがある。彼の妻であり、ヴィクラムの母は、そんな夫の商売人的態度が気に入らないが、ヴィクラムは父に同情的であった。支配者であるイギリスのエリザベス女王の即位を涙を流して喜んだり、仕事場の女性の部下との不倫を妻に疑われたりと、我々日本人にも共感できる「仕事をすることが家庭のため」と頑なに信じる父である。
 ヴィクラムの母は、結婚するまでケニアに行ったことはなく、インドで生まれ育った。ケニアから里帰りしていたヴィクラム父が、母と結婚できたのは、インドが独立前夜で将来の見通しがつかなかったからである。一族が離散したほうが良いと、彼女の一家では考えられたのだ。その読みは間違っていなかった。彼らはパンジャブ地方のヒンドゥー教徒だが、インド独立後、パキスタンの領土になってしまったのだ。
 ケニア独立前夜、インド系住民の多くはインドに帰ったのだが、ヴィクラムの一家がケニアにとどまったのは、郷里がパキスタンに属したこともある。
 

 僕のようにケニアについての知識がない者には、最初は読むのに難渋するが、それぞれの人物の背景を通じて、社会構造が見事に浮かび上がる。インド系住民という「どっちつかず」の視点だからこそ、白人支配下での黒人の待遇が細部にわたって描けているのだ。
 

(余談だが、アフリカのインド人でもっとも有名なのは、ロックバンド『クイーン』のフレディ・マーキュリーだろう。彼はケニアの南、タンザニアザンジバル島に生まれたペルシャ系インド人である。かつて、ザンジバル島奴隷貿易で栄え、イスラム商人もそれに一役買っていた。アフリカのインド系住民といえば、ヒンドゥー教徒よりもイスラム教徒のほうが多い。
 また、アフリカの現地語といえば、スワヒリ語がもっとも有名だが、その話者は東アフリカ、主にタンザニアケニアに限られる。というのは、スワヒリ語はアラブ語に強い影響を受けているからだ。
 今ではタンザニアケニアではスワヒリ語公用語の一つである。ただし、スワヒリ語での教育は初等教育のみにかぎられる。高等教育は英語である。スワヒリ語は高等教育に耐えうるほど成熟した言語ではないということか。
 前述したように、本書が英語で書かれている。アフリカ文学はそれぞれのマスターカントリー、つまり植民地支配していた白人国家の言語で書かれることがほとんどである)
 

(4)本書を読み進めるうえで欠かせない、二つのキーワード

 

 本書では冒頭から、ケニア人なら誰もが知っている、英語圏の人なら大抵知っている、日本人のほとんどは知らない二つの単語が出てくる。
 「マウマウ団」と「ジョモ・ケニヤッタ」である。
 ヴィクラムが少年時代を送った1950年代のケニアを語るうえで、この二つを避けて通ることはできない。
 

 マウマウ団は、現地黒人であるキクユ族の過激派のことだ。白人家庭を襲い、一家を皆殺しにする。大人だけでなく子供もだ。ヴィクラムの少年時代は、そんなマウマウ団に白人が恐怖していた時代である。
 とはいえ、イギリス人家庭には、キクユ人の使用人が必ずいた。キクユ族はケニア最大の民族である。だから、白人は彼らに毎日のように英国王へ忠誠を誓わせていた。その忠誠の名の下に暴力が行われることは日常茶飯事だ。それでも、裏切る使用人はいた。白人家庭の絶大な信頼を受けるほど機転のきく彼らも、みずからの血には逆らえなかった。
 マウマウ団の事件が起きると、キクユ人は一斉に取り調べを受ける。その後、戻ってくる者もいれば、戻ってこない者もいる。黒人が姿を消したところで、白人植民地では社会問題とはならない。ヴィクラム少年は知人の黒人が「行方不明」になることを何度も経験しながら成長したのだ。
 

 そんなマウマウ団が崇拝していたのが、ケニアのモーゼことジョモ・ケニヤッタである。
 この頃には、多くのケニア現地人がキリスト教を信じるようになったが、彼らの崇拝の対象はモーゼである。海を割り、選ばれし者たちを率いてアフリカ(エジプト)を脱出するという神話に、彼らは魅せられたらしい。
 そのモーゼに匹敵する人物といわれていたのが、ジョモ・ケニヤッタである。彼は後にケニア初代大統領になる。指導者となってからのジョモはマウマウ団との関わりを一切否定し、彼らを暴力集団として弾圧するようになった。はたして、彼がマウマウ団としてどれだけの悪事に手を染めていたかについては、今でも謎に包まれている。真相を知っている者も、それを明かそうとしないだろう。ジョモはマスター・カントリーであるイギリスにとっても、良き大統領とされていて、そのためにケニアはアフリカでは比較的経済発展することができたのだから。
 ヴィクラムはこのジョモをはじめとしたケニア黒人政府と深く関わることになる。白人でも黒人でもないヴィクラムは、派閥化するケニア政府の双方から信頼され、その汚職の仲介をすることで巨額の財をたくわえることになるのだ。彼の言葉を借りれば「自分がやっていなくとも、ほかの誰かがやっていただろう」ということを通じて。
(繰り返しになるが、本書はフィクションであり、ヴィクラムは実在しないが、ジョモ・ケニヤッタは実在する。このケニアの英雄の描写について、作者はあとがきで「あくまでもフィクション」と主張している)
 

(5)本書で心に残った幾多の印象的な場面

 

 優れた小説には印象的なシーンが数多く心に残るものだ。
 本書でもっとも心に残る場面についてはここでは語らないが、その他にも魅力ある箇所が多く、読者にとっては豊穣な経験ができるだろう。
 まず、少年時代のケニア横断旅行である。ケニアにはナイロビとモンバサという二大都市があって、少年ヴィクラムの目を通じて、その異なる色彩が鮮やかに描かれている。僕は読みながらWikipediaで調べて、その街の成り立ちを知り納得したものだ。少なくとも、本書を読めば、ナイロビとモンバサの違いを説明できるぐらいにはなる。
 ヒンドゥー教の祭り、ディワーリの日の描写も読みながら心躍ったものである。ケニアに生まれ育ったヴィクラムにとって、ヒンドゥー教の神々は遠い存在なのだが、親族集まっての祝祭は少年にとっては特別な一日だっただろう。
 しかし、ヴィクラムがアフリカ鉄道の監査役になったときの描写に勝るものはないだろう。これは、アフリカ鉄道のケニア区間の総価値を査定する仕事である。つまり、査定の名目で、ケニア中を旅できるのである。これほど、うらやましい仕事はほかにあるまい。
 時には同僚と一緒に、時には一人でヴィクラムは旅をする。すでに廃駅となったはずの駅舎に暮らす老夫婦との出会い。支線の先で暗躍している密猟者。事故のまま放置された客車。暗闇にひそむライオン。そして、ケニア山の神秘的で威圧的な風貌! ケニア人ヴィクラムに言わせると、ケニア山の眺望は、アフリカ最高峰キリマンジャロとは比較にならないほど荘厳であるという。
 やがて、ヴィクラムは事務員に戻り、どんどん出世して、ケニア政府中枢にまで入り込むようになるのだが、心の風景には常にケニアの大地があった。彼は一度ドロップアウトするが、読者の期待通り、かつての廃駅に足を運ばせるのだ。
 これらに比べて、汚職の仲介屋をつとめる描写はあまりにもそっけない。ヴィクラムの言葉を借りれば「単に規模の問題だな。チップ一枚が1ペニーでも百万ドルでもポーカーはできる。ルールは変わらない」
 倫理観の欠けたヴィクラムがインド系ゆえに利用され、汚名をかぶせられることに、僕はさして同情しない。しかし、徹底的に便利屋として酷使されている間に、彼が思い描いていた心の風景には共感できた。
 



 

◆まとめ

 

 本書の最大の読みどころは結末にある。自分の物語をすべて語り終えたとき、彼はついにみずからの主体者となる。相変わらずの、達観としているのか、淡々としているのか、虚無的なのか、わからない口調のままで。
 読み返してみて、これほどの物語をこの分量で構成できたものだと驚く。インド人の血をひくヴィクラム(作者もだが)の数学的思考にたけた頭脳によるものだろうか。
 それでいて、ヴィクラムはあらゆる人々を見放していない。「ナーバスだ」という彼のまわりの理想主義者たちにも彼は愛を注ぐ。倫理観に欠けているのに、驚くべきほど誠実な姿勢でヴィクラムは自分を語っているのだ。
 

 本書は「のめりこむ」ことに時間がかかる小説である。ただし、アフリカゆえの複雑な社会構造を頭で描けるようになれば、ヴィクラムの語る物語に魅せられるようになるだろう。そして、現在も続くアフリカの格差問題を実感できる一助となるはずだ。評価はA+。
 

ヴィクラム・ラルの狭間の世界

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