虎虎『中二病でも恋がしたい!』(評価・C)
アニメではわからなかったタイトルの意味がわかる!
でも、二次創作をしたくなる深みがない、凡庸ラブコメ
- 作者: 虎虎,逢坂望美
- 出版社/メーカー: 京都アニメーション
- 発売日: 2011/05
- メディア: 文庫
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「眼帯」がトレードマークのヒロイン、小鳥遊六花(たかなし・りっか)が出てくる本作。
かつて、僕にとって、眼帯は「海賊」のイメージだった。もしくは、独眼竜正宗。
「中二病」の典型ヒロインが粗製濫造されるまで、僕が眼帯にいだいていたイメージは「カッコいい男」のものだった。
しかし、女性の「眼帯」が流行したのは、最近の話ではない。
例えば、幕末のこと。
開国間もない江戸の街で、眼帯をした町娘が目立つようになった。
それを見て、志士はいきどおった。
「この眼病は横浜の開港場から流行したという。上海でも、はやっているようだ。この一事だけでも開国はいかぬ。夷人(外国人の蔑称)は海に追い落とすべきだ」
この眼病攘夷論を男たちは熱心に論じ、相当な知識人も信じたという。
ところが、冷静にこう分析する者もいた。
「なあに、あれはただの流行(ファッション)だよ」
たしかに眼病にかかった者もいただろうが、それを見て、粋(いき)な町娘が紅裏(もみうら)で眼帯をしているのが色っぽいと真似しただけである。だから、眼帯は紅や白粉(おしろい)と同様、化粧にすぎない、ということである。
実に教訓的な逸話だが、出典は司馬遼太郎の『峠』であるので、事実かどうかはわからない。いずれにせよ、女性の眼帯が魅力的だという感覚は「中二病」前からあるということである。
さて。
現在、アニメ二期が放映されている、この『中二病でも恋がしたい!』だが、原作小説は設定が大いに異なるのだ。
なにしろ、メインヒロイン四人のうち、二人がアニメオリジナルである。くみん先輩も凸守も出てこないのである。
そもそも、今作は「第一回京都アニメーション大賞 小説部門奨励賞」受賞作なのである。わざわざそんな賞を獲らせておいて、肝心のアニメ化では設定を大幅に変えるとはどういうことなのか。
僕はその一点に興味をいだき、この原作小説を読んだ。
最初に、タイトルのことである。
アニメを見ても、このタイトルの意味がわからなかったのだが、原作小説を読むと納得できる。
「(好きになった女の子が、たとえ)中二病でも(俺は、彼女と)恋がしたい!」
富樫勇太は六花に外見から興味をいだき、その内面を知っても、受け入れようと努力する。そういう話だったのだ。
構成は、プロローグ+12話+エピローグである。アニメを意識した構造だが、ハルヒを持ち出すまでもなく、アニメ1クール12話は文庫本一冊の分量では足りない。本作の各話は、アニメ1話に匹敵するほどの内容ではない。
そして、物語内の期間も短い。正確に調べてはいないが、二週間程度である。高一最初の数学のテスト結果が返ってから追試を受けるまでで、今作の12話は終わる。
中二病とはなんであるか。それは、本作の感想で語るべきものではない。
というのは「なんとなく中二病」だからである。ネットで「邪気眼系」と呼ばれるものの踏襲であるし、説明が圧倒的に足りないからだ。流行がすたれば、まともに読めないラノベの一つであろう。
とりあえず、自分で設定した人物になりきる者のなかで、ファンタジー系のバックグランドを持つケースを「中二病患者」と、とらえれば良い。
主人公は元中二病患者の富樫勇太、ヒロインは現中二病患者の小鳥遊六花である。あと、主要人物として、富樫の友人である一色誠と、クラス委員長の丹生谷森夏(にぶたに・しんか)が出てくるが、影はうすい。基本的には、勇太と六花のラブコメであり、シリアスな場面はほとんどなく、ギャグも物足りない。
勇太が中二病患者となったのは、中学時代に七宮智音という女子に会ったせいだ。森夏が中二病患者でなくなったのも、七宮のせいらしい。しかし、この七宮という人物が名前しか出てこない。そのせいで、かなり消化不良である。
いっぽう、六花が中二病患者となったのは、家族のせいなのだが、アニメでは大々的なシリアスパートで盛り上げられたその理由は、原作小説ではそっけない描写にとどまる。
総括すると、キャラが弱い。特に、サブヒロインである森夏の存在感はうすく、読者が好感を寄せることはないだろう。
結局、勇太と六花の恋模様が今作の読みどころとなるはずだが、なしくずし的に物語りは進む。二人をさえぎる障壁は特にない。読者からすれば、直線道路を走っている気分である。小説には欠かせない曲がり角が乏しい。独自の感性が見られない凡庸なラブコメである。
ゆえに、この原作小説をもとに、二次創作を書くことは難しいのではないか。話題を集めるラノベとは、読者が二次創作をしたくなるものだと僕は考えている。今作の「中二病」はネット文化にもとづく独立したものではないし、脇役がさっぱり目立たない。あえて言うと「今作をアニメ化するならば、どれぐらい設定を変えなければならないか」と考える教材にはなるであろう。京都アニメーションは、自前の文学賞を受賞させたのに関わらず、オリジナルヒロインを二人用意しなければ、アニメにはならないと判断した。まあ、そういう完成度である。
今作を読むことは「ひょっとして、俺ぐらいの才能でも、がんばったらアニメ化されるラノベを書けるかも?」という、うぬぼれを育てるだけかもしれない。罪作りな作品といえよう。
ただ、アニメを見ているからそう感じるだけであって、単体で読めば何らかの可能性を感じるものであったのかもしれない。個人的には、うまく流行に乗った幸運な作品だと感じるけど(無論、運も才能のうちである)