夏コミ三日目、1984年、大道芸人TOMI、蛸壷屋

 
 
 夏コミ三日目(8/16)に行ってきたのだけど、その入り口でやっていた大道芸人TOMIのパフォーマンスのほうが印象深かったり。
 

 
TOMI大道芸人TOMI公式サイト)
 
 東京ビッグサイトを後にした僕に、ひときわ大きな歓声がその入り口で起こっていた。どうやら、ジャグリング(ボウリングのピンのようなものを使ったお手玉)のパフォーマンスが行われているらしい。ちょっとだけのぞいてみようと顔を出してみたが、彼のステージングにすっかり心を奪われてしまったのだ。
 
 TVなどで、超人的な動きを見ることができる現在で、その芸の凄さを説明しても、面白さは伝わらないだろう。いかにして、観客の心をつかみ、最後の大技まで見せることができるか。インカムでしゃべりながら、器用に技をくりだす彼のパフォーマンスは、一緒になって歓声をあげるだけで楽しめるものだった。ライブならではのエンターテイメントがあった。
 
 なにしろ、最後に彼は「お金くださーい」といって、二十数人もの人が、一千円を彼のシルクハットの中に入れたぐらいなのだ。観客は決してダマされているわけでも、我を失っているわけでもなかった。
 ほとんどの観客にとって、このような大道芸の面白さは知らないことだったと思う。日本人は最初の反応は冷ややかだが、その職人芸には素直に驚嘆するものだ。
 日本人相手ならではの話術で、楽しい時間をすごせたこの芸は、一千円に値するエンターテイメントだったと思う。
 
 
 さて、夏コミ二日目に12時30分に着いて40分待たされたことの対策として、文庫本を持っていくことにした。電車の中でもそれを読んでいた。その本はオーソン・ウェルズの「1984年」である。
 このブログで不定期に連載している「涼宮ハルヒコの溜息」という作品で、主人公のキョン子は、SFを「理解できないもの」として見下している。それは僕の趣向によるものではなく、女子高生にSFが理解できないと思っているからである。確かに、田中芳樹の「銀河英雄伝」を愛読する女子高生はいるだろう。しかし、SFの本質には人間ドラマにあらず、フィクションだからこその想像力の希求にあると思うのだ。
 女子高生にとって、ケータイ小説や泣ける話というのは、感情の発散のために欠かせぬエンターテイメントである。それを男は理解する必要はない。鼻で笑ってもいいぐらいだ。
 それと同じように、奇想天外な宇宙の物語に思いをはせるSF小説なんて、女子高生からすれば「なんでそんなものを読みたがるのかわからない」ものなのだ。SF小説に理解ある女子高生がいたとしても、それはその中の人間ドラマに興味を持っているだけで、たいていのSF作家はカート・ヴォネガットが言うように「文章が下手」なのである。感情描写に関して言うならば、ケータイ小説のほうがずっと優れていると思う。
 
 そんな女子高生が読んでも面白くないこと間違いなしの「1984年」を僕は夏コミに向かう途中で読んでいた。その世界では、過去はたえまなく作り替えられ、人々は「ビッグ・ブラザー」なる存在の監視のもとに生活している。その「ビッグ・ブラザー」の絶対性を確立するために、たえず歴史は書きかえられる。たとえば、それまで戦争していた国と和解し、別の国を攻め始めることが起きたとする。すると、この「1984年」の世界では、もともと別の国を攻めていたように、過去の事実を塗り替えるのである。
 主人公はそんな仕事に従事している。彼は架空の人物を仕立てあげ、その演説の一部を塗り替える作業に没頭する。
 
 これは決して荒唐無稽な話ではない。今のメディアの多くが「人々の言葉を都合よく編集して」筋の通った内容を報じているからだ。なかには「関係者筋では…」などと架空の人物を創作することだってある。読者に説得力ある記事を書くためには、そのような工作はやむをえないことだと彼らは思っている。そうしないと、仕事がもらえない。良心に忠実な記事を書いたところで、採用されなければ、その努力は無駄に終わる。だから、編集長にとって好ましい記事を書くように心がける。たいていの記者はそれに慣れきっている。それが仕事だとわりきっている。
 
 さて、「1984年」では絶対者である「ビッグ・ブラザー」とともに、憎むべき対象として「ゴールドスタイン」という人物が出てくる。彼が実際に存在しているかどうかは定かではない。ただ、国民は彼を憎むように教わっている。一方で「ゴールドスタイン」を中心とした「ビッグ・ブラザー」に反旗をひるがえす組織がどこかにあるという噂も流れている。主人公は上層部の指示にしたがって、過去をぬりかえる作業に邁進しながら、そんな組織に思いをはせている。彼自身、あらゆる自由が許されない現在の境遇が間違っていると思っている。ただ、そのきっかけがつかめないだけだ。
 結局、主人公の様々な試みは失敗に終わり、世の数あるSF小説と同じく、この「1984年」はかなり不透明な内容で終わる。ビッグ・ブラザーが何であったのかは、この本を読み終えてもわかることはない。
 
 この「ビッグ・ブラザー」と「ゴールドスタイン」の関係は、カート・ヴォネガットの「猫のゆりかご」のほうが面白いと思う。そこでは架空の宗教「ボコノン教」が出てきて、国民の多くはそれを信じているが、国策では禁じられているのである。
 歴史でこの関係を求めるのならば、カストロゲバラキューバ革命となるだろうか。ゲバラはやがて、政府要職を辞し、世界革命に身を捧げた。キューバの独裁者カストロと、ゲリラ戦士であり続けたゲバラについては、事実とは異なる多くの幻想が、数多くの物語を生み出した。
 「1984年」のユートピアについては、キューバ革命を調べたほうが面白いかもしれない。キューバでは、今でも、教育・医療費は無料である。医者の数は世界一で、その少なくない数が、海外派遣して活躍している。キューバの一大産業のひとつが「医者の輸出」なのである。しかし、国民が総じて貧しいキューバの亡命者は後をたたない。特に才能あるスポーツ選手は、次々と米国に亡命し、そこで高給取りとなっている。
 
 

 
 話がそれた。そんな「1984年」を待ち時間のしのぎに用意していた僕だったが、夏コミ三日目は、12時30分にくると、そのままスムースに会場入りすることができた。二日目が異常だったのである。
 この三日目は、唯一の「男性向け同人誌」が売られる日である。多くの人が抱く「エロのオタク祭典」としてのコミックマーケットは、もはや三日目にしかないのだ。そして、二日目に比べて、その人数は明らかに少ないのだ。
 三日目の夏コミはこれまでと同じ雰囲気だった。僕と同じように、タオルに首をまく男たちにあふれている。ファッションだって、特に目立ったものはない。男女比は8:2ぐらいだろうか。中高生の姿は、ほとんど見られなかった。
 
 あの異常だった二日目、もっとも多くのスペースをとっていたのが「東方シリーズ」の関連作品だった。この「東方シリーズ」は、同人弾幕STGである。自機が女の子であるのと、音楽がいいのが特徴的だ。そんなゲームに中高生が魅了され、コミケット会場に足を運んだのはなぜか? ひとつにはニコニコ動画の影響があるだろう。ニコニコ動画では、東方シリーズ関連作品が、イラスト・音楽問わずしてあふれている。それは中高生にとっては「自分たちの文化」なのだろう。
 
 三日目になると、ガキに用はなし、とばかり、女性の裸を強調したPOPや表紙が満ちていた。良識ある人ならばゲンナリするだろうが、僕はこれが三日目だけにすぎないことに驚いていた。
 いざとなれば、コミックマーケットから年齢制限のある作品を取っ払っても、その開催は続けられるんじゃないかと思う。もはや、エロはコミックマーケットに不可欠な要素ではない。
 
 さて、三日目は男性向け同人誌ばかりではない。オリジナル創作も、この三日目の西ホールで出展されているのだ。僕はそこに足を運ぶ。やはり、多いのが鉄道関係と歴史関係である。「宦官物語」とか「中国阿片史」とか僕の心を揺さぶる冊子が置かれている。それを手にして読みながら、僕はふと考えた。わざわざ、会場に足を運んで買うまでのものかと。
 そのような内容は、インターネットでも調べることができる。冊子にした努力は認めるけれど、その完成度がネットの記事に勝るとは限らない。同人誌はえてして、制作者の願望に支配されてしまうものだ。それらを購入して、自分に得られるものはあるのだろうかと。
 
 だいたい、僕のような人間にとって、コミックマーケットは望みを満たす同人誌即売会ではない。たとえば、8月21日に行われる「コミティア」はオリジナル創作限定の同人誌即売会である。僕のような人間は、むしろ、「コミティア」などの別のイベントに足を運ぶべきだったのだ。
 
 しかし、その「コミティア」は、同じ東京ビッグサイトで行われるとはいえ、西ホールの一角でしか行われない。会場全体を貸しきっている「コミックマーケット」とは、その規模があまりにも異なる。そして、人は多いが、あまり売れないことでも有名らしい。「コミックマーケット」では人気サークルが新作を発表する機会であるが、「コミティア」にはそのような話題性はない。
 
 三日目のコミックマーケットには、三十代以上の出展者も珍しくない。ラムちゃんのコスプレをした女の子が会場を走っている。この熱気とした会場でビキニでいられるのはうらやましいかぎりである。そういう、流行にとらわれないものが、この三日目のコミックマーケットにはあった。しかし、それはやがて衰退していくことになるだろう。もはや、コミックマーケットの中心は中高生になってしまうのではないかと思う。
 
 と、そんなことをしみじみ考えながら、僕が目当てだった同人誌が「蛸壷屋」だったりするわけで。
 なお、「蛸壷屋」の新刊は、コミケ会場では買わずに、帰りの同人ショップで購入した。有名サークルの新刊なんて、限定本以外ならば、同人ショップで買ったほうが楽なのだ。そして、限定グッズのために並ぶほどの意欲も気力もない僕には、コミックマーケットに足を運ぶ理由なんてなかったといえる。
 
 蛸壷屋の新刊については、別記事に書きました。
蛸壷屋C76「けいおん!」新刊、卒業後の桜高軽音部員の物語 - esu-kei_text
 
 そして、帰りに大道芸人TOMIのパフォーマンスを見て、すっかり感動してしまったわけである。
 
 彼の芸は決して常人に真似できないものだが、口頭や文章で凄さを解説しても「見に行こう」と思う人は少ないだろう。ただ、その観客の盛り上げ方と一体感は、ぜひとも体験すべきである。
 立ち去ろうという人々を「次のパフォーマンスはぜひ」と言いながら、ちゃっかり失敗してみせる。次は大技、と言いながら、あまりにも期待を裏切る動きを見せる。そこで、どっと笑い声が起きると、彼は本気を出して、息をのむ芸を見せてくれるのだ。その緩急のつけかたがうまい。
 
 日本人は興味を持っても、なかなかそれに声をかけることはない。だから、彼は「ここで、ぜひ歓声を!」と誘導する。そして、それに足るだけのものを披露してくれる。それは、日々の修練によるものだし、多くの人には絶対に真似できないものだが、そういう芸をいかによく見せるか、という展開の仕方にこそ、大道芸の本質があると思った。
 
 最初から大技を見せても「すごい」は一回かぎりである。それよりも、それがどれだけ大技であるかを、観客にも納得できるよう、段階ごとに見せていかなければならない。そうすれば、それが期待と違ったものであったとしても、そのすごさがわかるのである。
 
 そして、彼は最後に「ぜひ、お金を!」と臆面なく言う。僕は500円までなら出せると思ったが、彼は「できれば、四角いのでお願いします」と語る。つまり、千円未満はお断りなのだ。これはすごいことだ。弾き語りを聴いて、千円を出す人なんてどれぐらいいるだろうか? しかし、僕を含め、観客はそれに嫌らしさを感じなかったはずだ。そして、エンターテイメントの値段について、いろいろ考えたに違いない。映画だと1800円。その半分以上の価値が、この芸にあるのか。同人誌の多くは300〜800円である。二冊以上の価値が、この芸にあるのか。
 1000円か否か。その選択肢をせまられることは、僕に彼の大道芸にかけるプライドだけではなく、ものの価値についていろいろ考えさせられた。
 
 彼は高2のときに、大道芸の魅力の虜になり、その道を志したという。そして、今は31歳。31歳になってもがんばってるんです、と訴えている。そんな自己紹介を、最後の大技の準備をしながら語っているのだ。そこにはドラマがあった。そして、この日はコミケット最終日であり、彼にとっても多くの観客が見てくれる大きなチャンスだったのだ。もちろん、彼はプロの芸人であり、許可を得て、ここでパフォーマンスをしている。そんな彼の生き様を、数十分の芸で伝えることに成功したのだ。彼のジャグリングは見事だったが、それ以上に、その芸の見せ方に僕は心底関心した。そして、数日たって冷静になっても、千円札を出しておけばよかった、と後悔しているぐらいなのである。
 
 こうして、成果は少なかったものの、いろいろ考えさせられたコミックマーケット三日目だった。
 経験の少ない僕の備忘録は、あまり説得力はないだろうが、僕個人としては、次に生かせる経験ができたと思っている。