ゲバラ日記―アメリカ合衆国に逆らい続けた男(未完成)
- 作者: チェゲバラ,Ernesto Che Guevara,平岡緑
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2007/11
- メディア: 文庫
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キューバ革命の立役者であり、その後の政府の幹部であったエルネスト・チェ・ゲバラは、しかし、全ての地位を捨てて、再び戦場におもむいた。
世界のどこかである不正が誰かに対して犯されたならば、それがどんなものであれ、それを心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それが一人の革命家のもっとも美しい資質なのだ。――さようなら、わが子たち、まだ私はお前たちに会いたいと思う。しかし今はただバパの最大のキスと抱擁を送る。
「子どもたちへの最後の手紙」チェ・ゲバラ
キューバ革命は社会主義革命ではない。土地の3/4を所有する外国資本(ほぼアメリカ合衆国)からの解放を目指したものだった。その農地改革はアメリカ合衆国の怒りを買い、国交断絶・貿易封鎖だけではなく、カストロ暗殺計画・プラヤ・ヒロン侵攻事件(ビッグス湾事件)など、革命政府の転覆をはかる計画がCIAを主導に次々と実行された。しかし、キューバはそれに屈するより、ソ連を頼り、社会主義国家への道を踏みだしていく。
キューバ危機、ケネディ暗殺などを経て、やがて、アメリカ合衆国はキューバをあきらめ、ベトナム戦争に本格介入する。キューバにおける合衆国の軍事脅威が過ぎ去った今、ゲバラは南米やアフリカなどでの独立運動を支援すべきだと考える。ひとつでも多く、合衆国の資本に頼らない国家を作ること。それが、南中北アメリカで孤立し、経済問題に苦しむキューバを救う唯一の道だとゲバラは判断した。
その理想は、南米ボリビアの山中で途絶えた。ゲリラ隊を指揮していたゲバラが、捕縛されたのだ。1967年10月9日、ラジオはゲバラの死を世界に向けて報道した。それまで何度も虚報が流れていたが、ゲバラの物品を詳細に語るそのニュースは現実味を帯びていた。しかし、その時点で、ゲバラは死んでいなかった。
CIAと、その言いなりであるボリビア政府は、ゲバラの射殺を決定した。だが、現場は困惑した。ゲバラは反米運動の生きる伝説であり、英雄であった。そのような存在を殺さなければならない執行者は、恐怖をおさえきれず酒を飲んだ。酔っ払った手で銃を持ち、ゲバラをねらうが、引き金を持つ手が震えていて、照準が定まらなかった。
ゲバラはそんな執行者をなだめるように言った。
「落ち着け、そしてよく狙え。お前はただの人間を撃つのだ」
それが、ゲバラの最期の言葉となった。
アーネスト・ヘミングウェイとキューバ
少し、ゲバラから話を外れて、キューバのことを語る。
アメリカ合衆国の小説家アーネスト・ヘミングウェイがキューバを愛し、長く居を構えていたことは有名だ。代表作「誰が為に鐘は鳴る」「老人と海」はキューバで書かれた。
そんな彼がキューバを退去したのは、革命により、社会主義国家になったためだと今では伝えられている。
しかし、キューバ革命が成功したのは1959年、ヘミングウェイがキューバを後にしたのは1960年である。こともあろうに、1960年5月15日には、みずから主催する国際釣り大会「ヘミングウェイ・カップ」で、革命の立役者のフィデル・カストロと親交を深めてしまった。
ノーベル文学賞を受賞したヘミングウェイは、アメリカ合衆国の生きた文化である。合衆国の資本を次々と国有化していくカストロの政策は、共産主義者のそれとしか見えなかった。反共を国是とするアメリカ合衆国にとって、ヘミングウェイとカストロの2ショットは許されざることではなかった。
ヘミングウェイはアメリカ合衆国に戻り、持病の躁鬱の対処法として電気ショック療法を受けた。それは、彼の記憶力を喪失させ、小説創作能力を奪った。1961年、キューバを失ってから一年後、ヘミングウェイは銃で自分を撃った。
遺言により、キューバのヘミングウェイ宅は、キューバ政府に寄贈された。現在も、そこはヘミングウェイ博物館として利用されている。
平等主義、経済の失政
145kmしか離れていないが、1961年からキューバとアメリカ合衆国は国交を断絶している。このような状況では、アメリカ合衆国の情報に拠ることが多い日本で、キューバの実態が伝わるのは難しい。キューバといえば「社会主義国家」「独裁者カストロ」「アメリカ合衆国への亡命者多発」という言葉が浮かぶ人がほとんどだろう。
しかし、実際に、キューバに行った人は次のように語る。
- 確かにモノはない。汚い。臭い。
- だが、人々はとても陽気で親切である。
- 治安は南米では抜群に良い。少なくとも、アメリカ合衆国よりは良い。
- 教育・医療は無料。識字率は95%を超える。成人がすべて高卒の学歴を持つため、モラルが高い
- サルサなどのキューバ音楽は世界的に有名。作家の村上龍など、日本人にもファンは少なくない
→村上龍、キューバ音楽の魅力を語る(http://trendy.nikkeibp.co.jp/lc/jidai/051013_murakami1/) - ホームレスやストリートチルドレンの姿は見かけない。
- 自殺者は、ほぼ皆無。
オンボロ自動車が排気ガスを吹かしている雑踏でも、人の笑顔はたえないようだ。経済的に豊かではないが、人々は幸せに生きる国。なんだか、物質主義に反対する人からすれば、理想社会のように思える。
ただし、日本外務省のサイトを見ると、決して、理想一辺倒の国ではないようだ。
- キューバは中南米諸国の中では比較的治安の良い国とされていたが、最近は犯罪事件にあう日本人観光客が少なくない。特に、デジカメをねらった犯罪が多発している。一般キューバ国民にとって、デジカメは高級品である。
- キューバでは政府による報道統制が行われているため、新聞やテレビ、ラジオなどから、国内でいつ、どこでどの様な犯罪が発生したのか、また、犯罪の発生傾向などの情報をリアルタイムで、かつ正確に知ることはできない。
- キューバ政府は、反体制活動家を「米国からの資金援助を受けた反革命分子」と捉え、反体制勢力を厳しく監視・取り締まっている。特に、2003年3月、キューバ当局は、人権活動家、反体制活動家、独立系ジャーナリスト等計75名を逮捕し、その後、即決裁判を行って6〜28年の刑を宣告した際には国際社会から強い非難を受けた。現在までに75名のうち16名が健康上の理由から仮釈放されたが、EUをはじめとする国際社会は全ての政治囚の釈放を要求している。
- 2002年5月、報道の自由、集会・結社の自由、憲法改正の必要性等を問う国民投票の実施を求める「バレラ計画」が1万人以上の署名を集め、人民権力全国議会に提出された。これに対し、キューバ政府は「社会主義は不可侵」との状況を憲法に加える署名活動を組織し、同憲法修正案は人民権力全国議会で可決された。
以上、外務省公式サイトより引用
海をへだてたすぐそこには、世界の富が集うアメリカ合衆国がひかえているのである。そのため、亡命者が絶えない。フロリダでは、そんな現キューバ政権から逃れたキューバ人が数十万人住んでいるという。
国際連合は、アメリカ合衆国にキューバへの経済封鎖解除などを求める決議を採択し続けているが、合衆国がそれを無視するのは、これら亡命キューバ人の票田を確保するためだと言われている。なお、この決議に反対するのは、アメリカ・イスラエル・マーシャル諸島・パラオのみである。
そんな彼らが「独裁者」と罵るフィデル・カストロは、キューバ革命の1959年から、支配者として君臨している。ただし、現在の地位は「議長」で投票により選ばれている(一期五年)
他の社会主義国家の支配者とは違い、カストロは豪邸や別荘を構えるなど、私腹を肥やすことはしていない。カストロはどれほどの経済危機に陥っても、「教育・福祉優先」という国策を崩すことはなかった。
「社会主義」という言葉は、冷戦を通じてネガティブな響きが強すぎる。キューバのそれは「平等主義」とするべきであろう。キューバが社会主義に国策を転換したのは、アメリカ合衆国が国交断絶・経済封鎖に踏み切ってからである。
そんな理想を推し進めていたために、経済的にキューバは成功したとは言えない。工業化には失敗した。最近はキューバの有機農法が注目されていると聞くが、未だに農業中心の国家である。
しかしながら、米西戦争以降アメリカ合衆国の半植民地であったキューバは、カストロやゲバラによる革命から、世界の警察を自認するアメリカ合衆国には頼らずに独立し続けている。1960年代前半の合衆国の再三にも及ぶ介入をはねのけて。
余談だが、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺者とされるリー・ハーヴェイ・オズワルドが、フロリダの「反カストロ組織」と密接な関係を持っていたことはご存じだろうか。オズワルドの経歴には共産主義者というものがあり、ある者は「キューバのカストロ政権がケネディ暗殺に加担した」と推測した。
カストロは言う「ケネディの死を喜んでいるのは、彼の対キューバ外交の弱腰を非難していた極右団体だ」。CIAが主導したカストロ政権転覆計画はいずれも失敗し、ケネディはCIAにメスを入れようとした。その矢先に、ケネディは暗殺されたのだが、多くの人にとっては、前年の「キューバ危機」の印象が強すぎたのだろう。キューバを「共産主義国家」という色眼鏡で見ている人しか、そのような推測を立てることはない。
フィデル・カストロもチェ・ゲバラも「テロリズムは認めない」ことを主張している。ソ連との関係も悪化していた1963年に、アメリカ大統領を暗殺する必要性がどこにも見られない。何しろ、カストロは国連本部で4時間半の演説をぶった男だ。ケネディを暗殺したのは、カストロを何度も暗殺しようとして失敗したCIAであるというのが、今では暗黙の了解である。もちろん、それを認めてはアメリカ合衆国の正義が乱されるので、決して声高に主張することはできないが。
「ゲバラ日記」について
本書は1966年11月から、南米ボリビアにてゲリラ戦を指揮していたゲバラが捕縛されるまでに書いた11ヶ月間の日記である。もともと、世に出す目的で書かれていないため、読むためには相当な知識を要する。
何しろ、捕縛された時点で、ゲバラはボリビアにてあまり戦果をあげていないのだ。本書の多くは、ゲリラ隊の内紛や病気・飢餓が中心である。キューバ革命のような爽快感は、本書を読んでも得ることはできない。
しかし、ゲバラの考えるゲリラ戦というのはそういうものであった。事実、キューバ革命で、カストロやゲバラのゲリラ隊が上陸してから攻勢に出るまでは、一年半以上を要しているのだ。隊員が十数人しかいなかった放浪期もある。ゲバラは長期戦を覚悟していたに違いない。心身は疲れていたかもしれないが、ボリビアから退こうとする考えは、この日記には一語たりとも見つけることができない。
そんな状況だったからこそかもしれないが、本書はゲバラの人間性がより濃厚に出ているといえるだろう。ゲバラの規律は厳しかったことで有名だ。酒・賭博は禁止で、規律を重んじる。日記は、部下たちの行動に多くを割いている。彼は自分が誉めたこと非難したことをできるだけ正直に書きつづっている。部下に対して公正であろうとし、仲間割れによる士気の低下を避けるために尽力したゲバラの姿がそこにある。
自由という抽象的概念を語るとき、自由を求める戦いでは、兵士たちの個人の自由は束縛されるという矛盾をきたす。アメリカからキューバを解放したゲバラは「自由の戦士」と称されるが、彼自身、自由という抽象的概念をどれぐらい信じていたのだろうか。彼は「人類の中で最高の部類に属する」者として「革命家」を定義づけていた。他人にも自分にも厳しかったゲバラにとって、自己犠牲・無私無欲は革命家の第一条件であったのだろう。
本書の登場人物のほとんどは、ゲバラを含めて戦死をするが、そこに悲愴感を見出すのは正しい読み方ではないと思う。
ゲバラとカストロは確執していたか
本書には、キューバ革命の総司令官であり、現在でも国家元首であるフィデル・カストロの長い序文が掲載されている。キューバでは、今でも情報統制がしかれている。そのため、本書に「左翼」の政治性の濃さを感じる人が少なくないと思う。しかし、きちんと読めばわかる。それはない、と。
以前、お薦めした「死体が語る真実 (文春文庫)」など、米国(アメリカ合衆国)の多くのノンフィクションは、流暢な文体で描かれている。それは、現在続けられている大統領候補指名選挙の演説とよく似ている。米国は思想を巧みに人々に知らしめる技術が発達し、そのプロが暗躍している社会なのだ。音楽でいうところのアレンジャーやプロデューサーの質が、米国文化は非常に高い。しかし、一方で60年代の粗野なアレンジの音楽も聴きたくなるときがあるように、そんな米国の優れた文体にも食傷気味になることがある。
キューバ革命の立役者であるフィデル・カストロやゲバラの言葉には、米国文化の洗練された文体では味わえない魅力がある。確かに、本書のカストロの長ったらしい序文は、初めて読む者には耐えがたいものだが、読了後に改めて見直すと、カストロの的確さに驚いてしまう。元弁護士であり、1960年に国連本部に乗りこんだときは、4時間半もしゃべりまくった男だ。只者ではない。
今回の序文は、ゲバラの文章を一字一句たりとも変えたくないから、日記を正しく理解してもらおうとしたカストロの気持ちが読み取れる。カストロは自分の伝記を書かせることを未だに認めていない偏狭な男だが、その理由は政治性云々よりも、「俺の方がうまく書ける」からに違いない。カストロからすれば、同志であるゲバラの書に自分の序文を載せるのは、自分にしか許されない当然の権利なのだろう。カストロはそういう男である。
ところで、ゲバラが南米ボリビアのゲリラを指揮するようになったいきさつが「カストロとゲバラの確執」であることが、当然のように語られている。しかし、意見の相違もあったかもしれないが、二人の信頼が失われたことが、ゲバラがボリビアに向かった理由ではないと思う。むしろ、そんな確執がささやかれるようになったとき、ゲバラは次のように考えたのではないか。米国がベトナムに目を向け、キューバの軍事的脅威が過ぎ去り、人々は些細なことで「カストロとゲバラが仲たがいした」と噂する余裕までできてしまった。ならば、俺は外国に出て、フィデル(カストロ)にはできないことをやろう、と。
このゲバラ日記でも、カストロの演説の長さについては何度も言及されているが「キューバは俺を見捨てたのではないか」という弱音はまったくない。そういう考えを抱く人は、ゲリラ戦法というのを理解していないと思う。捕縛されたとき、ゲバラの指揮していたゲリラ隊は十数人に減っていたが、ゲバラは然るべき土地に行けたら再建可能と踏んでいたのだろう。キューバ革命時でも、ゲバラはシエラマエストラにて、教育や工業で手腕を発揮して、人々に認められた。
カストロは自分の銅像や肖像画を一切認めないが、ゲバラの神格化には積極的だ。カストロとゲバラの確執を推測する者からすれば、茶番劇のように思われるかもしれないが、ゲバラはその待遇に不満をもらすことはないと思う。きっと、ゲバラはカストロにこう言うだろう。「どうぞ、好き勝手にしてくれ。革命家がどれだけ尊い人間であるかを後世の人間に伝えるためなら、いくらでも俺の名前を利用してくれ」
(未完)
【参考リンク】
- キューバ革命史 (http://www10.plala.or.jp/shosuzki/history/cuba/contents.htm)
- http://homepage2.nifty.com/GAKUS/hetareron/che.html (http://homepage2.nifty.com/GAKUS/hetareron/che.html)
- http://www.casa-de-cuba.com/hemingway/nenpu.html (http://www.casa-de-cuba.com/hemingway/nenpu)
- キューバ基礎データ | 外務省 (http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cuba/data.html)
- 外務省:海外安全ホームページ【キューバ】 (http://www.anzen.mofa.go.jp/info/info4_S.asp?id=245)
- チェ・ゲバラの生涯(http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/guevara.html)
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