ハルヒシリーズを語る(その2)

 
 昨日の記事の続き。
 
 小説版「涼宮ハルヒシリーズ」は、大きく二つにわけられる。
 
・書き下ろし長編
・雑誌掲載などを目的とした中編
 
 ここらへんは「涼宮ハルヒシリーズ −wikipedia」をご覧になっていただきたい。すると、刊行された物語が、必ずしも時系列順に展開されていないことに気づくはずだ。
 
 では、刊行順よりも時系列順から読んだほうが理解できるのかといえば、そういうものではない。物語の書き手は人間であり、歴史的事実に即しているわけではないので、登場人物の描写は日々推移してしまうものである。
 また、このシリーズは積極的に物語をリンクさせているため「その段階で公開されている作品」を知らないと、読んでいて置いてけぼりにされた気分になってしまう。
 
 もし、アニメをご覧になった方ならば、「ライクアライブ」での涼宮ハルヒの言動が「物分りが良すぎる」「はじめのころからは変わりすぎだろ」と思われるかもしれない。その理由は、この「ライクアライブ」が、第4作「涼宮ハルヒの消失」以降に書かれたからである。
 
涼宮ハルヒの消失 ※表示されている表紙とは異なる場合がございます。あらかじめご了承ください。 (角川文庫 角川スニーカー文庫) [ 谷川流 ]
 
 正直いって、ハルヒシリーズは「消失」以前、「消失」以降で劇的に変わっている。それは物語の設定や人間関係ではなく、作者の書き方の問題である。そして、「消失」以降のハルヒは初期の輝きがうせてしまっている。
 
 涼宮ハルヒの輝きとは何か? それは、他人の迷惑をかえりみず己を信じて突き進みたいという果てしなき欲望である。
 しかし、それを実際にやってしまえば、社会不適合な人間である。
 彼女はそこまで常識知らずではない。
 だから、彼女は彼女なりの原則でその欲望を胸に秘めて生活している。
 それでも十分「変な子」「問題児」であるのだが。
 
 なお、アニメは小説に比べて、キャラに対する描写が濃厚となるメディアである。
 一言でいうと、アニメは小説より丸っこい。
 アニメからハルヒを知った人からすれば、小説版の「消失」以前のハルヒの尖った性格に目を疑うかもしれない。
 もし、ハルヒが身近にいたらどう思うか?
 たいていの人はDQNと認定するだけではないだろうか?
 彼女が孤立してまでも守りたいものを理解しようとせずに。
 
 そんな化け物みたいな存在「涼宮ハルヒ」は、当然のことながら、作者の手にも負えない登場人物である。
 語り手の独白で、無駄に使われているとしか思えないトリビアの数々も、そうしなければ対抗しようがない、ハルヒの存在感を主張しているかのようだ。
 そのはみだしっぷりがハルヒシリーズの最大の魅力であった。
 そんな歩く暴風雨である絶対的存在、涼宮ハルヒがもしいなくなったら……。
 彼女が不在だからこそ描くことができた、彼女の魅力を知ることができるのが「涼宮ハルヒの消失」である。
 
 さて、ハルヒシリーズは、コミカルなSF学園小説である。
 この物語は、涼宮ハルヒが、本ばかり読んでいる一人きりの文芸部員長門有希を見つけ、その部室を乗っ取ることから進展するが、その長門が読んでいるのはSF小説である。
 普通ならば、こういうシチュエーションの文芸部員は、太宰や三島を読んでそうなものだが、ハルヒシリーズはそうではない。
 
 ただの学園生活だがSFの影響が濃厚の、そしてライトノベルの学園もの、となれば、普通ならば読者を選びそうなところだが、この作品の偉大さは、従来のいわゆる「オタク層」以外のことを巻き込んだことにある。
 たとえば、僕のようなライトノベルに偏見を持つ人間をむかわせるぐらいの魅力を放っているのが、ハルヒシリーズである。
 
 だが、「消失」以降のハルヒシリーズは、ただのSF小説ないしはライトノベルにとどまっている気がする。
 僕のようなSFが好きじゃない人間からすれば、間違った方向性に進んでしまった気がする。
 ハルヒシリーズの奇天烈な世界観も、「消失」も、舞台装置としては、とても効果的であった。
 「なるほど、SFって、こういう面白さがあるのか」と思わせるだけのものがあったはずなのに。
 
 いや「涼宮ハルヒの消失」という、デビュー作と異なる形で頂点をなしただけでも、ハルヒシリーズの偉大さといえるのだろうか。
 
 「伏線回収」という技術には構成力が欠かせないわけで、構成力のない伏線回収など単なる作者のリップサービスでしかないのだが、「消失」はハルヒシリーズとしてこれまで積み上げてきた物語の価値を知らしめた作品である。
 「消失」単体ではこの本の魅力を語ることはできず、「憂鬱」でデビューしたあとも、それぞれのキャラを描いていた作者の苦労がむくわれた作品といえるだろう。
 
 一方「消失」以降になると、ハルヒがなんだか普通にかわいくなっているのが悲しい。
 「消失」を書くことで、作者は涼宮ハルヒというモンスターを人間にしてしまった。
 それは避けては通れない道ではあったが、以降は作者のハルヒ描写がのっていないのを読んでいて感じる。
 そのせいで、読むのにすごく疲れる。
 「消失」なんて、ライトノベルの文体に慣れない僕でも、すんなりと読めて、しかも、年甲斐もなく泣きそうになったものだが。
 
 さて「消失」がどんな物語であるかは、ここでは書かないが、実はハルヒがメインの話ではない。
 たとえば、古代遺跡で今はもういない人々の嘆きの声を見る感情に似た切なさがある。
 この作品で勝ち目がない相手に果敢にも挑んだ「彼女」は、あくまでも(彼女なりの基準だが)フェアプレイに徹しようとしたわけで、そのかいがいしい精神と、それでもゆずれなかった一縷の望み。
 それが僕をセンチメンタルにさせる。
 
 ところで、この「消失」は、語り手の言葉を借りなくても、映像だけでもかなり表現できる物語である。
 アニメ二期の話がなかなか進展しないのは、この「消失」をどう見せるべきか決めあぐねているのかもしれない。
 この作品単体という形で見せても、他の物語がいろんな形でリンクしているため、視聴者に「わかる」形で話を進めるのが難しいだろう。
 
 「消失」以降のハルヒシリーズには勢いがない。もし、二次創作をするのなら、「消失」以降のアナザーストーリーが良いだろう。
 
 今年の冬コミでも、数多くの「団長」腕章をつけたコスプレイヤーがいた。グループ名で「SOS団」とつけた人も多かろう。
 昨日に語った中2の女の子のように、ハルヒの存在に救いを求めている子だっている。マネしようがないキャラクターではあるけれど。
 
 アニメも、小説第2作「涼宮ハルヒの溜息」を読んでいないと話にならない「朝比奈ミクルの冒険」から始めたり、製作スタッフにハルヒの名前が名を連ねていたり、創作上の人物であるハルヒを実在するように努めているのがおかしい。
 
 キャラ主体の小説は久々に読んだが、濃いキャラクターたちは読んでいて楽しい。
 なるほど、面白い小説とはこういうものかと実に参考になりました。