アニメファンのオタク魂に熱をともす一冊! ― 『クール・ジャパンはなぜ嫌われるのか』(評価・A+)

 

 
 
海外での日本アニメ流行の実態は「コップの中の嵐」にすぎない?
政府の介入を怖れるあまりデマを信じるオタクたちよ、目を覚ませ!
 

 クールジャパンはダサい。
 僕を含め、ほとんどの人がそう考えているはずなのに、国は「クール・ジャパン政策」を進めようとしている。なぜなのか。
 本書の著者は、経済産業省の官僚として「クール・ジャパン政策」に携わってきた。その経験から「クール・ジャパンが嫌われる理由」と「クール・ジャパン政策を続ける理由」を丁寧に語っているのが本書である。
 

 例えば、本書では 国際政治学ジョセフ・ナイのソフト・パワー論が紹介されている。
 


「政府は文化を管理できないし、管理すべきではない」
「文化を管理する政策がとられていない点自体が、魅力の源泉になりうる」
 

 我々がクール・ジャパン政策でもっとも心配しているところは「海外展開を口実に、表現が規制される」ことにあるだろう。
 しかし、それは「日本のソフトパワー」を失う方向性にあることがすでに指摘されているのだ。
 だから、共産党独裁国家である中華人民共和国は、その検閲の厳しさゆえに日本のソフトパワーの脅威とはなりえない。いっぽうで、同性愛者に寛容なカナダが、最近は文化発信地として注目を浴びるようになっている。
 

 かつて日本は「(欧米に比べて)安くて性能がいい」製品を作ることで世界を席巻した。しかし、今ではアジアの「もっと安くて性能がそこそこ」の製品に市場を奪われている。
 日本ブランドの売りは「機能から感性」に移行しなければならない。だからこそ、世界のマニアに支持されている「日本のアニメ」が注目を浴びているのだ。
 

 ただ、「クール・ジャパン政策がアニメ現場の劣悪な労働環境を改善することはできない」と著者は冷静に語る。クール・ジャパン政策は「日本のソフト・パワーの海外展開のための産業支援」にすぎないからだ。それなのに「国が介入すれば今の労働環境から抜け出せる」と期待するアニメーターの声は少なくない。
 そのような「お門違い」がまかり通っているのが、現在の「クール・ジャパン」を取り巻く現状といえるだろう。
 

 本書の著者は、すでに経済産業省を退官した元官僚である。著者は「クール・ジャパン政策」会議を通じて、専門家が不在である現状を痛感し、みずから研究者となるべく2013年から英国オックスフォード大学に留学中である。
 その背景には「日本のアニメは世界に通用する」という強い信念がある。かつて『マクロスプラス』『プラネテス』といったアニメ作品に感動した著者は、それゆえに「クール・ジャパン政策」に官僚として関わり、のちに研究者の道を歩んだ。本書を読めば、そんな著者の行動力に「彼はオタクの鑑である」と感嘆するに違いない。
 

 「世界に誇る日本のアニメ」と口にする者は多いが、その実態は「コップの中の嵐」にすぎないと著者は語る。コンベンションを開けば、一万人以上が集まり、日本の会場にはない熱気に満ちている。ところが、一歩外を出れば、その熱は消えてしまう。日本アニメは「世界の一部のマニアに熱狂的に支持されている」だけで、社会現象にはなっていないのだ。
 

 そんな「クール・ジャパン」をとりまく現状を、本書は論理的かつ丁寧に説明している。もし、「クール・ジャパン政策と称して、国が俺たちの文化を骨抜きにするつもりじゃないか」と心配しているのならば、絶対に本書を読むべきだ。
 僕が本書を読んで強く感じたのは「我々はもっと理論武装するべきだ」ということ。ジョセフ・ナイのソフト・パワー論を知るだけでも、幾多の不毛な論争に決着をつけることができる。それもせずに「国の介入反対!」と筋違いなことを叫んでいるだけでは何ら解決することはない。
 本書はそんな読者のオタク魂に熱をともす格好の一冊となるはずだ。
 

 

【読んだ動機】

 

 5月4日の新聞読書欄で紹介されて興味を持った。
 『クール・ジャパン政策』は名前だけが踊り成果が伴わないと感じていたが、その理由を知りたかったのである。
 また、最近は「世界に誇る日本のアニメ!」と言いながら、その実態を知ろうとしない人が多すぎるという不満があった。実際に政策に関わった官僚を通じて、海外のアニメファンの実態を知りたかったのである。
 

【読む前の先入観】

 

 僕が「クール・ジャパン」をダサいという理由はいろいろあるが、最大の理由は「クール=カッコいい」を、自分で名乗ることの違和感である。「日本ブランド化推進計画ポップ・カルチャー部門」で良いのではないか、と。
 ただし、本書を読んで痛感したのは「クール・ジャパン」という言葉の認知度の高さである。良くも悪くも旗印には最適の流行語なのだ。
 例えば「アベノミクス」は、そもそも批判的な意味合いで作られた語句なのだが、今では首相本人が口にするようになった。人を動かすには、わかりやすいキャッチフレーズが欠かせない。
 

 あと、僕はアニメ作品に影響されたオタクではないということ。
 僕が影響を受けたのは、アニメよりもゲームである。スーパーファミコン世代なので「ファイナルファンタジーVI」などのRPGに僕は引きこまれた。
 この「ファイナルファンタジーVI」は米国でもヒットした。アタリショック以降、TVゲームの世界市場は日本が支配していたが、米国で流行した日本のRPGは「FFVI」が最初だった。
 ところが、その覇権は長く続かなかった。今のTVゲーム業界の主流は日本にはない。
 僕自身にかぎっていうならば、RPGツクール作品によるアマチュアの「フリーゲーム」に関心を移し、膨大なゲームをプレイしたものである。ただ、この「フリーゲーム」という文化も、経済基盤を持たないゆえか、次第にネットでは衰えていく。
 だから、いま、アニメファンが「日本アニメは世界の誇り!」と胸張って語っているのを、僕は冷静に見ている。個人的に、楽しんだアニメ作品は『魔法少女まどか☆マギカ』が最後で、今ではリアルタイムで一本も見ていない。
 

 ニコニコ動画などで外国人がレトロゲームをレビューしている動画を見ることもある。僕が好きなのは、下品な罵倒文句が楽しい「The Angry Video Game Nerd」(怒れるTVゲームオタク)シリーズ。
 


 

 これは「ファンサブ」、つまり、ファンが非公式に自国語言語を字幕にした動画だ。
(ちなみに、アニメでは、このファンサブ文化が非常に発達していて、日本で放映されてから24時間以内に各言語の字幕がついて違法で配信されるのが現状である。このファンサブについては、本書でもくわしく取り上げている)
 

 もともと、この「AVGN」シリーズは「The Angry Nintendo Nerd」と名乗っていた。この「ニンテンドー」とは会社名ではなく「ファミコン」の通称名である。やがて、セガやアタリなどのTVゲームも題材にするようになったので「Video Game」と改称したのだ。
 

 今の欧米の20代〜30代の若者は、みんな日本ゲームをして育ったものだ。彼らは日本ゲームにはない「リアルさ」を追求して、ゲーム世界市場の覇権を日本から奪還する。
 いま、日本のゲーム会社は、海外の大作ゲームに対抗するだけの予算すら用意できないのが現状だ。
 

 思えば、欧米ゲーマーによる「JRPG批判」の論調の高まりが、日本ゲームの凋落を示したと思う。日本のRPGの傾向と決まりごとを声高に批判するようになったのは、自国ゲームの自信のあらわれであったのだ。
 

 僕は同じことが、日本アニメにも起きなるんじゃないかと予想している。僕が本書を手にしたのは、その予兆を関係者の視点を通じて知りたかった期待もある。
 

【本書の特徴】

 

 前述したように「表現の規制」は「日本のソフト・パワー衰退」につながる。そして『クール・ジャパン政策』は産業支援政策であり、「国が制作物の内容に介入する」というものではない。
 本書でもっとも強調されているのは、その誤解を解消することにあるだろう。
 

 さて、やや下品な話だが、僕は本書を読みながら「着エロ」と「AV」について考えたものだ。
 世界各国では売春が法律で禁じられている。だから「ポルノビデオ」制作には、各国なりに対処法をとることになった。
 米国の場合、ポルノビデオはあくまで「ミュージックビデオ」であるという位置づけがされた。だから本番シーンではムダに音楽が大音量で流れている。
 日本の場合、局部にモザイク処理がされた。あくまでも「擬似行為」と言い張るためである。そのために青沼ちあさのような「処女のAV女優」という存在を生みだすに至る。
 局部を見せることができないので、日本のAVは様々な趣向を凝らすようになる。その成果のひとつが「着エロ」である。
 「着エロ」作品には、男優が出てくることはない。だから、着エロは「のぞき見」ではなく、カメラ一人称の「主体者視点」となるのだ。
 着エロ女優は「本番行為はNG」という設定である。ところが、スタッフの言われるがままに、どんどん撮影はエスカレートする。本番行為はないから、いや、本番ができないからこそ、擬似行為を執拗に撮影される。「着エロ」でもっとも大事なのは、この「女の子のダマサれた感」であるといっていい。
 実際のところ、AVよりも着エロのほうが撮影は難しい。セックスよりもオナニーを見せるほうが演技力が求められるからである。だから、AVを数本撮ったあとで、着エロ作品を撮影して、先に着エロを発表するという小細工も、現在では少なくない。
 この「着エロ」文化もまた、日本のソフト・パワーだと感じる。局部をモザイク処理しなければならないという事情が、工夫をもたらし、「本番無しでもエロい」着エロを生み出したのだ。
 

 「エロ」は日本のポップ・カルチャーで重要な位置を占めている。日本のアニメ作品だってそうだ。そんな「エロい」文化を海外展開することに批判的な人もいるだろう。
 でも「それが日本」ではなく「これも日本」でいいではないか。
 文学でたとえれば「村上春樹ではなく三島由紀夫」というようなものだ。両者ともに、海外で熱心なファンを持つ日本人作家だが、それだけで日本文学を語ることはできない。
 

 それに、日本がゲーム市場の覇権を奪われた理由のひとつは「暴力表現」にある。例えば、世界中でヒットした『グランド・セフト・オート』シリーズの残酷描写は、日本ゲームにはとても真似できないものだ。「エロ」と「暴力」はポップ・カルチャーでは重要な要素を占めているわけである。、
 

 日本で通用するものが世界で支持されるとはかぎらない。RPGでいえば『ドラゴンクエスト』が良い例である。『ドラクエ』はRPGというゲームを日本の子供に知らしめた多大な影響力を持つゲームだが、欧米では「子供には難しいし、大人には単純すぎる」中途半端なゲームとして支持を得られなかった。
 いっぽう、世界の目を意識しすぎると、日本のファンにも支持されなくなることがある。RPGでいえば『ファイナルファンタジー』シリーズがわかりやすいだろう。『FFVI』(欧米では「FF3」)は海外ゲーマーに強い印象を与え、『FFVII』は当時のゲーム最先端として海外ゲーマーをトリコにした。ところが『FFVIII』以降になると、日本のファンからは「CGに金を使うばかりで、肝心のゲーム性がイマイチ」と非難されるようになる。海外ゲーマーも「日本のRPGはヘンだ」と、JRPGというカテゴリーを作り、批判するようになる。
 

 結局、創作者にとっては「自分が面白いものを作る」ことが大事であり、「クール・ジャパン政策」にできるのは、その海外展開を支援することでしかない。
 だから、表現規制は「クール・ジャパン政策」に真っ向から反対するものだ。安全な日本だからこそ、寛容な表現ができるのだ。成熟した文化だからこそ、過激な表現に注目が集まらないのだ。
 

 本書を読むことで、そんな「日本のソフト・パワー」の方向性が見えてくるのではないかと思う。
 

【展開について】

 

 オタクは相手を論破させるのが大好きである。そんなオタク心をよく知る著者は、読者に「クール・ジャパンが嫌われる理由」を具体的にあげることで「正論を言うだけで事態は解決しない」ことを教えてくれる。
 

 まず、第一章では、インターネットで話題になった「秋元発言炎上事件」を取り上げている。
 2013年4月3日「第2回クールジャパン推進会議」で作詞家の秋元康の発言がネット上で話題となった。しかし、このときのコピペ「クール・ジャパンは国策なのだから、クリエイターは無報酬で協力するべき」という秋元発言は正確さを欠いている。秋元康は「無報酬で協力すべき」とは言っていない。
 なぜ、事実がねじ曲げられてネットで拡散されたのか。この理由のひとつは、アンパンマン作者やなせたかしへの批判という下地があったように思う。彼は報酬を受け取らずに「ご当地キャラ」を量産した。それが慣例となって、イラストレーターが正当な報酬を得られないという不満が、ネット世論でくすぶっていたという背景がある。
 このように「クール・ジャパン」への批判の多くが、事実性を欠いたものであると著者は指摘している。
 

 第二章では、「クール・ジャパンが嫌われる理由」をそれぞれ丁寧に分析している。本書でもっともわかりやすく、読みごたえのある部分だろう。
 

・自分で自分のことをクールと言うのはクールではない
・内容がクールではない
・労働環境がクールではない
・内容がジャパンではない
・形式がジャパンではない
・ジャパン(政府)と関わるとクールでなくなる
・税金の無駄遣い
 

 以上のように「クール・ジャパンが嫌いな理由」に例をあげることで、それぞれの読者に「なぜ、クール・ジャパンという言葉の響きがイヤなのか」について論理的に考えさせることに成功している。
 

 第三章では、意外な事実が語られている。19世紀に流行した「ジャポニズム」に、日本政府の積極的関与があったというのだ。
 フランス発の「浮世絵」ブームについては、以下の論調で語られることが多い。
 


「日本人はその価値を分からず、荷物の包み紙に使われる中、ヨーロッパの人達の側から見いだせる形で広まった」
 

 ところが、当時の万博では、日本政府が現地商人やキュレーターと関わり、日本文化の紹介に尽力した事実があるという。日本政府の「官民連携」が「ジャポニズム」の基礎を作ったのである。
 「クール・ジャパン」政策には「ジャポニズム」という前例があるわけだ。
 

 そして、第四章では、海外における日本アニメ流行の実態が語られている。日本放送後24時間以内にそれぞれの国の字幕をつけて発信するファンサブのようなコミュニティは、どのようにして生まれたか。海外ファン同士の強固な結びつきと、それが社会に反映されない「コップの中の嵐」である現状が語られている。
 

 第五章・第六章は、ファンのみならず、日本のアニメ関係者すべてに向けられた提言といえるだろう。
 『クール・ジャパン政策』は経済支援を第一とした産業振興政策であり、国が介入するものではないということ。「官主導」の政策ではないということだ。
 例えば、クール・ジャパン政策の一例として、インドにおけるコンテンツ・プロジェクトが紹介されている。
 インドでの放送権獲得・関連グッズの販売。これらの報告は、経済産業省のサイトで公開されている。
http://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service_mono/creative
(↑海外プロジェクトの項目)
 

 そして、著者はこう警告する。
 「『クール・ジャパン政策』を毛嫌いするばかりでは、せっかくのチャンスをロクでもない連中に横取りされてしまう」
 役所というのは、良くも悪くも、予算枠内で仕事を行う。もし、『クール・ジャパン政策』に無理解な企業しか手を挙げないのならば、生産性のない企業に分配するのもやむなし、と考えるものだ。
 

 たしかに『クール・ジャパン』という響きはダサい。
 ただ、その名称の認知度は高く、それがゆえに予算が確保されている。
 日本政府は、日本というブランドを「機能から感性へ」への転機をはかっており、そのために世界的名声のあるアニメを活用しようとしている。
 それは、表現の自由の規制を意図するものではない。繰り返しになるが、ジョセフ・ナイは、そのソフト・パワー論でこう語っているのだ。
「政府は文化を管理できないし、管理すべきではない」
「文化を管理する政策がとられていない点自体が、魅力の源泉になりうる」
 もし、政府が表現規制に乗り出すならば「ナイがこう言った」「ソフト・パワー論がこう言った」と反論すればいい。
 日本のオタクに今足りないのは、こういう学術的根拠を持つことだと、著者は本書を通じて語っているのだ。
 

【本書の核心】

 

 日本アニメ論はほとんど内向きなものばかりである。アニメや漫画を教える学部は大学でも増えたものの、それは「表現論」がほとんどで、海外の実態を教えるところはない。
 だから、日本アニメ研究は、海外のアニメ研究と結びつくことがない。
 

 例えば、インターネット黎明期では、英語で交流する先進者を多く見たものだった。日本発のフリーソフトは、海外でも人気となることが多く、ファンによって、あるいは作者自身によって、海外利用者との交流がはかられていた。
 ところが、「日本のアニメは世界で通用する」という自信が、外向きのパワーを失ってしまったのか、今のアニメオタクの多くは海外の評価を、自分の都合が良いように加工していると感じる。自分の好きな作品が海外サイトで認められると「ほら見たことか、この作品は世界で通用する!」と叫び、否定的だと「海外のヤツらにはわからないのか、この作品の偉大さが」と開き直る。そんな上昇志向のないファンが増えてきているように僕には見える。
(そして、これは十年ぐらい前のゲームファンの姿勢と酷似している)
 

 日本ファンに比べて、海外ファンが積極的になるのは理由がある。日本にいると、アニメや漫画は労せずに手に入ることができるが、海外ではそうはいかない。
 よく、欧米のアニメのコンベンションで、一万人を超える人達が熱狂している写真を見かける。それだけ見ると「日本のアニメは世界を制した!」と感じるが、現地に赴いた著者によれば会場を一歩出れば、その熱気はなくなるという。つまり、日本のアニメ人気は「コップの中の嵐」にすぎず、社会現象ではないのだ。
 

 コンベンションで海外オタクが熱狂するのは「同好の士」が身の回りにいないからである。彼らが日本アニメを見るのは、たとえるならば、中学生が洋楽を聴きたがる感覚に似ているかもしれない。
 米国ではスクールカーストという序列が日本よりも厳しいという。男子ならば「アメフトのクォーターバック」、女子ならば「チアリーダー」。それを理想とするマッチョ文化が浸透している。
 日本アニメの物語は、その代替文化として発展したという。これは、日本のオタク文化史にも通じるものがある。海外オタクは日本アニメに「救い」と「避難場所」を見つけたのだ。
 だから、彼らは熱心に日本アニメを吸収する。その一例が「ファンサブ」だ。「公式で見られないのだから、違法で見るしかない」と彼らは開き直っている。
 そして、その違法動画をもとにファン同士で交流している。そのネットワークは日本企業の参入を拒むほど強固なのものだ。
 

 このように、日本アニメは海外で産業として成り立っていないのが現状であり、それを打破するのが『クール・ジャパン政策』の目的の一つなのだが、その道は険しい。
 例えば、声優の問題がある。海外オタクは、日本アニメに金を払いたくないのではない。公式DVDが出たら購入するファンが少なくない。ところが、それを吹き替える声優の数が圧倒的に足りない。ゆえに、同じ声優がたらい回しになるのである。
 日本では「声優業」が確立され、声優目当てにアニメ作品を見るファンもいる。それと同じことが海外でも可能ではないか。声優に興味を持たせることで、現地公式DVDに付加価値をつけることができないだろうか。
 海外ファンは急造の「ファンサブ」に満足しているのではない。ファン活動だからこその限界がある。公式作品でしかできない強みがあるはずなのだ。
 

 本書はアニメの将来について「外向き」思考の題材を与えてくれる。
 はたして、日本アニメの海外展開戦略が、アニメ業界の劣悪な労働環境の改善につながるかは疑問だ。ただ、その悪しき慣習は、日本国内だけのビジネスゆえにもたらされたのではないか。
 

 例えば、本書でも出てくるイアン・コンドリーの『アニメの魂』は、文化人類学の観点から、日本アニメという文化をまとめたものだ。そこでは、世界的名声と現場の労働環境のギャップという日本アニメの問題点が指摘されているという。
 

アニメの魂: 協働する創造の現場

アニメの魂: 協働する創造の現場

 

 このような海外の声に、我々は耳を閉ざしてはいけないと感じた。
 

【評価とその理由】

 

 本書の「日本アニメの海外での実態」は、ほとんど米国に限定されているため、物足りなさを感じる読者もいるだろう。
 また、著者が語るように「知的中間報告」にすぎず、力強い結論を導きだしたものではない。
 

 しかし、本書ほど「なぜ、自分はクール・ジャパンを嫌うのか?」という感情を明晰に分析した一冊はないはずだ。
 その不安の背景には、それぞれの思い入れと危機感がある。なぜ、そのデマを信じたのか。なぜ、そうなると信じているのか。それは「誤解」として切り捨てるには惜しい。その「誤解」にこそ、現状を打破する鍵がある。
 

 オタク魂が熱ければ熱いほど本書から得られることは多いはずだ。日本アニメの将来性に不安を感じている人は、読んで後悔することはないだろう。評価はA+。
 

 
 

【追記】

 

 かつてのJRPG批判と同じように、日本のアニメの「決まり事」の批判が一般的になれば、海外オタクはみずからアニメを制作しようと考えるはずだ。
 そのとき、問題となるのが、日本アニメ現場の劣悪な環境だ。アニメーターは「自分の技術をいかせるならば、待遇の良い海外資本で」と考えるかもしれない。もちろん、人件費の安く、アニメ制作のノウハウがある中国の下請け会社を活用する方法だってある。
 
 
 このままでは、日本アニメファンのためのアニメが作られなくなる可能性だってある。アニメを愛する者ならば、そのことに危機感を持つべきだと思うのだ。