僕の高校時代


 「涼宮ハルヒコの憂鬱」という二次創作ノベルを、わりと本気で書いている。
 書きながら、自分の高校生活を思いだす。面白い話ならいろいろある。
 涼宮ハルヒハルヒコ君と同じように、僕は一年で部長になった。三年がいなくなって廃部寸前だった「山岳部」を男子四人で乗っ取ったのだ。それから仲の良かった女子三人を入れて、一年生七人で活動した。総体が終わったあとの9月のことだ。
 最初の大会は秋の新人大会。男子四人で参加した。同じクラスの気心の知れた連中である。とある学校の校庭にテントをはって泊まり、翌日に山に登る。一泊二日の大会。ピクニックみたいなものだった。
 大会前、夕食に何を作るか議論したあげく「すきやき」にまとまった。面倒だったので材料は持参せず、当日に地元の八百屋で野菜を買った。ところが、その「すきやき」には何故か不思議なにおいがした。
「おい、すっぱいんじゃないか」
「砂糖が足りないだよ、砂糖が」
「いや、そういう問題じゃないだろ」
 料理ができない男子四人の「すきやき」は、そのように無様なものだった。翌朝、一人の部員が腹痛を訴えた。我々にできることは一つしかなかった。すなわち、棄権である。山に登る前に、食中毒でリタイアするとは、後にも先にも我が部ぐらいだっただろう。
 それからも、我が山岳部はやる気なく活動した。付近の山をハイキングして楽しんだ。校庭でテント設営の練習をしたが、何度やっても時間内に組み立てることができなかった。
 学園祭はオリエンテーリングを主催した。設問の一つ、ジャイアンの名文句について、熱い議論が交わされた。「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」なのか「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」なのか。様々な解釈が生まれた。そんな論議の向こう側では、体育館で、僕の兄貴がボーカルをしていたブルーハーツコピーバンドが演奏していた。学校で、僕の兄弟は仲が悪かったふりをした。そちらのほうが面白かったからだ。
 女子との仲は良かったが、彼女はできなかった。当時、僕が好きだと思っていた子は、ある日、僕の瞳をにらんでこう言った。「あんたの好きな子だけは、ほんまにわからんわ」
 その子に書いてあげた人権作文が大きな賞を取って、僕が本気で書いた作文は落選した。世の中そんなものだと思った。授業中は、村上春樹村上龍を読んでいた。「コインロッカー・ベイビーズ」を読んでると、授業なんてどうでも良くなってきた。
 高校二年になると、友達を作らなくなった。一人で帰る方が気がラクだった。正直いって、僕の高校生活のほとんどは孤独なものだった。当時、僕が好きだと思っていた子は、よく空を見ていたので、その背中に向かって、語りかけたものだ。「何を待ってんだい?」
 バイクの免許をとってからは、よくいろんなところに行った。でも、学校には真面目に通った。親に心配かけたくなかったからだ。
 スポーツは得意ではなかった。球技大会ではBチームすなわち二軍の自称リベロとして、無駄な動きで相手と味方を翻弄した。ボロ負けした記憶しかないが、僕のまわりの「運動できない軍団」はそれで満足だった。女子の黄色い声援など、夢のまた夢だ。
 修学旅行の思い出といえば、最終日の前日に、ある子が「うちの部屋にきて」と言った。調べてみると、その子は個室。これは期待しないほうがおかしい。が、僕は別の女子の部屋に行って、トランプをして楽しんだ。修学旅行なんてそんなものだ。
 塾には行かなかったが、高3の夏休み、東京の兄貴の家に泊まりこんで、代々木の予備校の夏期講習を受けることにした。しかし、僕はサボって、東京見学をした。福生横田基地にも行った。村上龍の「限りなき透明に近いブルー」の舞台だったからだ。でも、童貞だった僕には、そのフェンスの向こう側の世界のことなんてわかるはずもなく、なぜか敗北感に打ちひしがれてトボトボと帰った。小説家になれば楽できそうだが、小説を書くだけのものが自分にはないと思った。
 夏休みが終わってからは、受験勉強にはげみ、国立の大学に受かった。あまり行きたくないところだったが、国立かマシな私立でないと通わせてもらえなかった。
 卒業式、僕は何を思っていたのだろう。「やっと一人暮らしができる」と考えていたことだけは覚えている。山岳部のみんなと写真をとって、いろいろ話して帰った。
 恋人もできなければ、さしたる思い出もなかった高校生活。充実していたか、と問われれば、どうかな、と答えるだろう。高校時代、僕は孤独にひたっていた。幸運にも、いじめられることはなかった。僕はただ、自分の好きな音楽と本に囲まれて過ごした。
 「涼宮ハルヒの憂鬱」という小説を、二次創作を通してふりかえりながら、僕はかつての母校を歩きまわる。イラスト研究部は、屋上につながる階段の渡り廊下にあった。文芸部は図書室で活動していた。部誌をぱらぱらめくってみたが、あまり面白いものはなかった。女子ばっかりだったと思う。
 大学一年のとき、夜の母校にバイクで行ったことがある。おそるおそる足をふみしめて歩きながら、なんだか自分の場所じゃない気がした。さみしさをまぎらわせてほしかったが、かつての校舎は僕をなぐさめてはくれなかった。10分ぐらいだろうか、歩きまわったあと、僕は学校を出て、猛スピードでバイクを走らせた。それから、自分の通った高校に足を踏み入れたことはない。