僕がドラクエシリーズ(スーファミ限定)で好きなキャラBEST3
日本RPGの代表的存在である「ドラゴンクエスト」シリーズには、個性豊かなキャラクターが数多く登場している。
一時間以上に及ぶ脳内会議の結果、僕は自分の好きなキャラベスト3を決定することに成功した。
これから、僕の好きなドラクエキャラを、三人紹介してみよう。
なお、機種はスーパーファミコン限定とした。対象作品は、初代・2・3・5・6の五作のみである。
(ローマ数字ではわかりにくいと考え、このエントリでは、シリーズナンバーをアラビア数字で表記する)
ドラクエをプレイしたことがある人は、印象に残ったキャラクタ―やイベントを思い浮かべながら、この記事を読んでもらいたい。
◆ 僕がドラクエシリーズ(スーファミ限定)で好きなキャラ 第三位
ドラクエシリーズには、町の入り口で、その地名をプレイヤに伝える人々がいる。
「案内人」というには、あまりにも言葉少なく、「看板人間」としか言いようがない人々である。
このような衛兵ならば納得できるのだが、
たいていは町娘がその役割を担っている。
このような子供の場合もある。
旅人に対してあまりに無警戒だろう。
言うまでもなく、これは「話す」というRPGコマンドを楽しませるための演出の産物である。
ただ看板が立っているよりも、町の人々に語らせたほうが、同じデータ量で画面をにぎやかにすることができるのだ。
特に、ロトシリーズと呼ばれる初期三部作は、容量のせめぎ合いの中で作られた。ボツになったイベントが少なくないことが、後に明らかになっている。
よく批判される、オープニングでの「王の非情な命令」や「看板人間」などは、限られた容量で面白さを追求するために、リアリティを犠牲にした結果である。
と、このように、ドラクエには、どの町にも「看板人間」が存在しているのだが、ドラクエ3のここだけは格が違っていた。
そこは、バハラタを抜けた、山奥の向こうにある。
そこは、入るなり、大臣と思わしき人物が立っている。
明らかに、それまでの町や城とは異なる雰囲気を放っている。
そして、彼は高らかにこう言うのだ。
「ダーマの神殿に、よくぞきた!」
これまでの衛兵や看板人間とは比較にならない力強い言葉に、圧倒されたプレイヤは少なくないだろう。
しかし、驚きはそれだけにとどまらない。
なんと、冒険の書の記録をしてくれるのだ!
このドラゴンクエスト3において、冒険の書の記録(データセーブ)は、ごく一部の例外をのぞき、国王のみに許されていた行為である。
(そのために、町や村ではセーブをすることができない)
そんな冒険の書の記録を、地名を告げる看板人間が果たしているのだ。
これに衝撃を受けないプレイヤはいなかったはずである。
思えば、ドラクエ3でのデータセーブは、わざわざ城に入り、国王と面会しなければならなかった。
ところが、ダーマの神殿ではそうではなかった。
僕は感動のあまり、それ以降はできるかぎり、ダーマの神殿でのセーブを心がけるようになったものだ。
ルーラ(移動呪文)のために消費されるMPがもったいない、という声があるかもしれないが、ダーマの神殿には8Gという破格の宿屋が用意されている。
ダーマの神殿こそ、勇者の拠点にふさわしい地なのだ。
こうして、何度も顔を会わせるたびに、最初はやや尊大に思えた「ダーマの神殿に、よくぞきた!」という台詞が、だんだん頼もしく思えてくるから不思議である。
主人公の冒険をもっともあたたかく見守ってくれたのは、間違いなく「彼」であっただろう。
ということで、僕の好きなドラクエキャラ(スーファミ限定)第三位は、ドラクエ3のダーマの神殿入り口に立っている人である。
しかし「セーブはダーマの神殿で」という常識は、決して一般的見解ではないらしい。
僕の知人の多くは、スタート地点「アリアハン」を拠点にしていたというのだ。
そのアリアハンにある、冒険者を集めることができる「ルイーダの酒場」も、確かに町の入り口近くだ。
ただ、他の城ならともかく、ダーマの神殿が相手では、その利便性は比較にならないはずである。
ところが、アリアハンには、その欠点をおぎなってあまりある存在が待ち構えているのだ。
そう、主人公のお母さんである。
ドラクエ3では、故郷に帰れば、タダで実家に泊まることができるのだ。
ダーマの神殿の宿屋は8Gと安価とはいえ、タダにはかなわない。
ただ、個人的には、冒険に出た後に、自宅に帰って泊まる、というのは、勇者としてあるまじき行為であると考えている。
勇者が世界各地で歓迎されるのは、故郷に安住する道を捨てているからではないだろうか。
移動呪文ルーラが使えたとしても、勇者たる者、平和が訪れるまでは母親の顔を見ないべきではないか。
仲間をドカドカ連れて、連日、実家に泊まるなんて、ただのダメ息子ではないか。
だから、僕はいくら実家に帰ればタダに泊まれるとはいえ、ダーマの神殿を利用するのである。
ダーマの神殿の彼を第三位にしたことは、そんな僕のプレイスタイルが反映された結果である。
なお、ダーマの神殿はドラクエ6以降にも登場するが、
「彼」のような存在はいない。
やはり、ダーマの神殿と名のるからには、世界観は違っても、第一声はかくあるべきであろう。
「ダーマの神殿に、よくぞきた!」
◆ 僕がドラクエシリーズ(スーファミ限定)で好きなキャラ 第二位
ドラクエシリーズは例外なくハッピーエンドで終わるため、ともすれば「子供向けの単純なストーリー」と受けとめられがちである。
しかし、ドラクエシリーズの魅力は、イベントの中に散りばめられた「悲劇要素」にあると僕は思う。
その傾向が顕著になったのは、ドラクエ4からであろう。
特に、第四章終盤から、第五章序盤にかけての怒濤の展開は、ドット絵とテキストとBGMだけで、これほどまでの物語を演出できるのかと、僕はプレイしながら感嘆したものだった。
RPGという形式を「演劇装置」として、ストーリー性を重視したのが、いわゆる「JRPG」である。
それは確かに、自由度の高さにこそ、ゲーム性を求めてきた「ロールプレイングゲーム」の本質からは外れるものだっただろう。
しかし、ドラクエ2により、漫画やアニメに匹敵するほどのエンターテイメント性を、JRPGは確立できたのだ。
最近、JRPGが国際的に批判されているが(⇒関連記事)、決してRPGという形式で「物語」を表現しようとしたドラクエシリーズ等の魅力が色あせたわけではない。
それに、「勇者が魔王を倒して世界を救う」というストーリーに沿ったドラクエ初期三部作だって、ご都合主義ばかりではない。
王道シナリオだったドラクエ3でも、数多くの悲劇が世界各地に散りばめられていたのだ。
↑夜間だけ活気あふれる村テドンの真の姿とは?
↑サマンオサの勇者、サイモンの行方は……
たしかに、勇者は魔王を倒し、世界を救うことができるだろう。
しかし、やはり、世界を旅する勇者にも「救いきれぬもの」というものがあるのだ。
これらの短い悲劇イベントを積み重ねることで世界を構築しようとした、ドラクエシリーズ作者、堀井雄二の美意識は、もっと評価されていいと思う。
さて、この悲劇要素を、ドラクエ2で考えてみたとき、僕はムーンブルク落城よりも、彼のことを思い浮かべた。
そう、ドラクエ2のロクデナシじじぃ その1である。
(「その2」については後述)
一見すると、ただの助平ジジイにすぎないが、この町の背景を知ると、単純な目で彼のことを見られなくなるはずだ。
このじじぃがいるのは、漁師町ザパン。
大陸から離れた島にある。
女だらけの町なのは、男たちが漁に出ているからなのだ。
ところが……!
宿屋に泊まっている商人から、主人公一行は信じがたいニュースを耳にする。
ザパンの男たちの船は、魔物たちに襲われて、沈没してしまったのだ。
その事実を知らずに、女たちは日々を生きている。
日本でも、漁師の町は異なる文化圏といってもいいぐらいだが(特に、祭りの荒々しさ)、彼女たちは漁師の妻であることに誇りを持っているようだ。
そんな女たちに育てられた子供たちは、健気に「父の跡を継いで漁師になる」と語る。
それが当たり前のことであるかのように。
しかし、その「お父さん」は、もうこの世にいないのだ!
宿屋に泊まる商人が口をつぐんでいても、男が戻って来ない事実に変わりはない。
おそらく、ザパンを守る女たちは、やがて、自分の夫が亡き者となったことを知るだろう。
そのとき、彼女たちは自分の子供の前では泣き顔を見せないよう気丈にふるまうことはできるかもしれない。
だが、夫をなくした妻の悲しみをなぐさめる者はどこにいるのだろうか。
魔王を倒すべく、世界を旅する主人公一行に、その任務を果たすことはできない。
そう、いくら主人公が将来的に魔王を退治し、平和を取り戻したとしても、「救いきれないもの」が存在するのだ。
このようなとき、人間は宗教にすがらざるをえない。
みずからよりも遥か高みにいる存在にすがりつくことにより、自分の制御できない感情を相対化することでしか、人間は安らぎを得ることができないのだ。
ところが、この港町ザパンにいる聖職者が、彼女たちの心を満たすことができるとは、僕には到底思えない。
ザパンの聖職者は、「聖なる織り機」などの宝を守るために、バリアを敷き詰め、旅人を威嚇する存在だからである。
むろん、この神官のような存在だって、宗教には欠かせない。
たとえ、その価値を知らなくても、命をかけてそれを守ろうとする人々の献身さが、宗教に「神聖さ」をもたらしたのは事実である。
しかし、そんな彼女には、夫をなくした妻の魂をなぐさめることはできまい。
そこで、ロクデナシじじぃである。
この「ええのう」とは何を意味するのだろうか。
僕はこの言葉から察するに、彼は地元民ではないと考えている。
彼は老後の生活を過ごす場所を探すために、老体であるのに関わらず、世界各地を放浪し、そして、女ばかりの町ザパンに理想郷を見いだしたのではないだろうか。
前述したように、港町ザパンは、大陸から離れた島にある。
魔物が跋扈する状況下で、こんなところに来た老人は、タダ者ではないのだ。
言動はひょうひょうとしているものの、その腕前は確かなものであるはずだ。
もしかすると、大陸を去らなければならないほどの暗い過去を持っているのかもしれない。
彼が住もうとするザパンに、戻ってくる男たちは、もういない。
このとき、老人は「ずっと女だらけの町になってラッキー」と安直に考えるだろうか。
彼の人生経験の深さが、悲しみに包まれた女たちの表情に気づかないはずがない。
この老人に、ドラゴンボールの亀仙人を連想する人は僕だけではないだろう。
亀仙人はブルマのパンティーを求め、そのぱふぱふ(ウーロンの変装だが)で出血多量に陥るほどの変態老人である。
しかし、その一方で、主人公の悟空をはじめ、クリリン(ほか一名)を一流の格闘家に育て上げた腕前を持っている。
そして、世界滅亡の危機に陥ったピッコロ大魔王出現のときは、「武天老師」の名が偽りないことを読者に証明した。
↑亀仙人が命をかけて放った大技、魔封波
クリリンが殺され、悟空も死んだと信じられていた、当時の絶望的状況の中で、亀仙人は(当時、最強格闘家の一人であった)天津飯を眠らせて、単独でピッコロ大魔王に対峙したのだ。
若者に夢を託す、その亀仙人の生き様に感動したのは、僕だけではあるまい。
僕はザパンのロクデナシじじぃに、亀仙人と同じ魅力を見いだすのである。
夫が戻らないことを嘆くザパンの女たちは、神殿の聖職者に慰めを求めるだろう。
しかし、その女神官は、町の宝を守ることだけを生き甲斐にしているような聖職者である。
だから、彼女たちはみずからの悲しみを、この老人に語り始めるに違いない。
老人は、その話を聞き、彼もまた、神に祈らざるをえなくなるだろう。
おそらく、彼は若い頃の経験で、神をも恐れぬほどの意志を持つように至ったかもしれない。
だが、神に頼らない生き方は、孤独に生きる支えにはなっても、人々の魂をなぐさめることはできないのだ。
夫をなくした女たちに、彼はどんな言葉をかけるのだろう。
ということで、僕の好きなドラクエキャラ(スーファミ限定)第二位は、港町ザパンのロクデナシじじぃその1である。
彼のことを考えるとき、僕はドラクエの世界観の深さを改めて知るのだ。
日本RPGの代表作となっているのは、やはり伊達ではない、と。
なお、ドラクエ2におけるロクデナシじじぃその2とはデルコンダルにいる占い師である。
彼が詐欺師であるという声もあるが、主人公たちから金銭をとらないところを見るかぎり、彼は彼なりに真剣に、世界を救う協力をしているんじゃないか、と思う。
そして、このような人々のおせっかいな献身を受けることも、これまた、勇者の役目であるのだ。
あと、漁師町ザパンの悲劇についてだが、一つだけ「救い」が用意されている。
ザパンの港町の中央にいるこの娘は、なんと婚約相手の名前を、四行で三回も叫んでいる。
(こういう端的な女性描写の面白さも、ドラクエの魅力のひとつ)
ところが、このルーク君だけは生き残っているのだ。
ベルポイの町で、記憶をなくしたルーク君に会うことができる。
スーパーファミコン版のドラクエ2では、エンディングでそんなルーク君の物語も描かれている。
このような芸の細かさもまた、「ドラクエ」シリーズの面白さといえるだろう。
◆ 僕がドラクエシリーズ(スーファミ限定)で好きなキャラ 第一位
RPGの面白さとは、「経験値を稼ぐための効率的な戦略の確立」と「世界を探索しイベントを制覇する面白さ」にあると思う。
ドラクエシリーズは、決して戦略性に優れたRPGではない。ランダム要素が高すぎて、自動回復などの不透明なデータだって少なくない。
(ただし、シリーズを経るごとに、「はぐれメタル狩り」などの作業を合理的にするための戦略は補完されてきた)
そんなドラクエシリーズが、なぜ日本のRPGを代表するのかといえば、やはり「世界を探索する楽しさ」をプレイヤに伝えることに成功した点にあるのではないか。
僻地にいる頑固な老人が重要アイテムを持っていたり、ちょっとした恋物語があったりと。新たな町に行く喜びが、ドラクエにある。
これぞ、ドラクエの最たる魅力であろう。
そんなドラクエシリーズの中で、もっとも印象的なイベントがここである。
そこは、人里離れた場所にあるのに関わらず、まがまがしいぐらいにネオンを飾りたくっている。
ここで行われているものこそ、かの有名なドラクエ6のベストドレッサー・コンテストなのだ。
ドラクエ6には、「カッコよさ」というステータスがある。
これまでのRPGで求められていたのは、ただ単に「強さ」だけであった。
そのために、プレイヤは町でもっとも高価な装備品を揃えるべく、必死でゴールド稼ぎをしたものだ。
この「カッコよさ」は、それまでのシナリオでは、ほぼ意味をなさなかった。
ベストドレッサーコンテストの会場に来て、初めてその意味が明らかにされたのである。
このイベントは、ある程度のランクまでは、クリア必須イベントになっている。
なぜなら、ここで得られるアイテムなしには、シナリオを進めることはできないからだ。
そんなベストドレッサー・コンテストを、うっとうしく感じたプレイヤは少なくないだろう。
わざわざ、このコンテストのために装備品を変え、そして、その後は元に戻すのである。
その作業の手間がわずらわしかった人は多いだろう。僕もその一人であった。
しかし、そんな僕のユウウツは彼の陽気さの前に吹き飛ばされた。
そう、ベストドレッサー・コンテストの司会者である。
↑見よ、この「!」マークの多さを!
↑そして、一クセもある二クセもある審査員たち相手にも、彼はたじろがない
↑ラルフ審査員の、このような失礼な物言いだって、
↑何事もなかったかのようにスルーする、この司会術!
そして、最後にはお決まりのこの言葉を口にするのだ。
「シーユーアゲイン ネクスト コンテスト! バイバーイ!」
ということで、僕の好きなドラクエシリーズ(スーファミ限定)キャラ、ベスト1は、このベストドレッサー・コンテストの司会者である。
おい、ちょっと待て、これだけの理由で1位って間違ってないか、奇をてらいすぎではないか、と思われる読者もいるかもしれないが、もちろん、これだけが理由ではない。
このベストドレッサー・コンテストはランクが8つあり、それぞれを制覇すると、非売品のアイテムを入手することができる。
世界を救うという使命がある主人公一行にとって、そのアイテムを獲得することだけが目的であり、オシャレなんてものは二の次なのである。
つまり、最高ランクを制覇した時点で、プレイヤにとってベストドレッサー・コンテストは終了するのだ。
さて、その最高ランクで、見事、主人公の仲間であるミレーユがベストドレッサーに選ばれたとしよう。
このとき、カッコ良さのために装備を整えるわずらわしさから解放されたと、ほっとしたプレイヤがほとんどだったはずだ。
ところが、司会者はいつものように、こう口にするのである。
「シーユーアゲイン ネクスト コンテスト! バイバーイ!」
そう、主人公一行にとって「ベストドレッサー・コンテスト」は終わったものだとしても、多くの人々にとって、「ベストドレッサー・コンテスト」は続いていくものなのだ。
「シーユーアゲイン」は、決して、プレイヤに向かって言ったのではない。
その世界の住民のために口にしたものである。
僕はこの事実を知り、いたく衝撃を受けた。
その衝撃に匹敵するのは、「タクティクス・オウガ」の有名なバッドエンドぐらいである。
ドラクエ6で主人公一行は、みずからが何であるかを知り、その宿命に立ち向かって行く。
その一方で、カッコ良さに命をかけている人たちがいて、そのコンテストに生き甲斐を求めている人がいるのである。
これぞ、RPGならではの世界観構築の好例であろう。
ドラクエのメッセージはプレイヤのためだけに語られていると錯覚しがちだが、決して町の人々はプレイヤの利便性のために存在するのではないのだ。
ということで、ドラクエ6のベストドレッサー・コンテストというイベントに、僕はRPGは何なのか考えたものだ。
そして、僕は気持ちが沈んだときは、彼の陽気な言葉を思い出すのである。
シーユーアゲイン ネクスト コンテスト! バイバーイ!
そう、僕が朽ち果てようが、世界は続き、誰かの物語は続いて行くのである。
その営みに比べると、僕のユウウツなど何とちっぽけであろうか。
ぜひとも、あなたも人生に迷ったときには、彼のことを思い出してほしい。
クセのある審査員たちを軽くいなす彼の素晴らしい司会術を。
そして、最後に口にする、このお決まりのフレーズを。
◆ 終わりに
ということで、僕の好きなドラクエシリーズ(スーファミ限定)TOP3は以下のような結果になった
第三位 ドラクエ3の「ダーマの神殿」の入り口に立っている人
第二位 ドラクエ2の「漁師町ザパン」にいる、ロクデナシじじぃ
第一位 ドラクエ6のベストドレッサー・コンテスト司会者
あえて、全員「名無しキャラ」にしてみた。
では、名前のあるキャラだったら誰なのかといえば、僕は断然、ドラクエ5の「ヘンリー王子」をベスト1にあげるだろう。
幼少期、実に偉そうだった「ヘンリー王子」は、予期せぬ事態にまきこまれ、主人公と苦楽を共にする。
その後、自由を得たヘンリー王子は、立派に社会復帰し、主人公にとってもなじみのある女性と結婚を果たすのだ。
このとき、僕は心底から、ヘンリーの結婚を祝福したものである。
それは、主人公にも結婚の機会が与えられているからであるが、このように「他の同性キャラの結婚を祝福する」感情をもたらすゲームは、それほど多くないはずだ。
このヘンリーと主人公との「友情」は、いわゆる「萌え文化」には絶対に描けないものだ。
もし、今の風潮に不満を抱いているのならば、改めてドラクエ5をプレイし、ヘンリー王子との出会いや成長を物語を味わってほしいと思う。
そして、ヘンリーの結婚を祝福できたとき、「その感情をもたらしたもの」こそがドラクエならではの魅力であることに気づくはずだ。
特に、スーファミ時代のドラクエシリーズは、「ドラクエらしさ」を残しつつも、そのシナリオの展開や演出は、他のRPGにはない独創性を打ち出していた。
ぜひとも、想像力を最大限にふくらましてドラクエシリーズを再プレイしてもらいたい。
その面白さの中に、今後のエンターテイメントを牽引する鍵を見つけることができるはずだ。
※スクリーンショットは、本文の内容とは異なるものがあります。ご了承ください。