批判相次ぐ「ランティス組曲」の本質的問題


 再現職人として知られるデボ氏が、いろいろ話題になっている「ランティス組曲」を原曲の音源を使って再現している。

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 曲目は以下のリンクを参考に。

 これを聴いて「やっぱり素人はダメだったな」「これだったら買ったのに」というコメントがある。参加した歌い手を批判する声である。
 一方で「20分は長すぎた」「つなぎが悪い」「ただの宣伝集じゃん」というコメントも多い。編曲者および企画したランティス側を批判する声である。


 僕が聴いたかぎりでは、後半の「JAM PROJECT」メドレーは、ニコニコ歌い手にやらせるべきではなかったと感じた。やはり「JAM PROJECT」には唯一無二の存在感がある。
 しかし、いくら原曲で再現したところで、作業用BGMになるぐらいで、わざわざ購入する人はいないだろう。
 だいたい、これで満足できる人は、音声を加工した再生産ミュージックで満足できるということではないか。


 さて、僕は「ランティス組曲」の録音風景を見て、心底ガッカリして、以下の記事を書いた。


 ニコニコ動画で人気の歌い手が参加する、という知らせを聞いたとき、僕は全国の猛者どもが集結する光景を思い浮かべた。
 中国全土から、大会のために、天下の料理人が集う料理漫画みたいなノリを期待したのだ。
 ところが、その収録風景は「なれあい」を前面に押しだしていた。
 確かに「音楽」とは「音を楽しむ」と書くけれど、楽しむのは聞き手側であって、歌い手だけが楽しんでも意味ないではないか?


 「BECK」という音楽漫画では、最初のレコーディングで、自分たちの音が出せず、不本意な形で終えたバンドメンバーの姿が描かれている。


 見知らぬ高価な機材の中、スタジオのことならば何でも知っているプロ相手に、ミュージシャンは自分の音楽を主張しなければならない。存在感のない、音程のあっただけのボーカルならば、アイドルにだってできる。正直いって、音声加工すれば、誰だってうまくなれる時代なのだ。
 だから、自分の色を出そうとする思いがあれば、最初のレコーディングが楽しいはずがない。それを「楽しい」とするのは、ごまかし以外のなにものでもない。
 わざわざ「楽しいレコーディングでした」という動画を公開することは、視聴者をナメていると思った。音の出ないギター、音の出ないマイクによる、口パクとエアギターはこびるTV番組と何ら変わらないじゃないか、と。


 ニコニコ動画の歌い手たちは「声」だけで勝負して支持を得た人たちである。もちろん、わかりやすいネタで人気を得た人が少なくないのだが、巷で売れているアイドルよりはずっとうまいと思う。
 しかし「ランティス動画」を僕が聴いたかぎりでは「Jは存在感あるけど、好みじゃないなあ」「nayutaさんに救われた!」「yonjiよりミジンコのほうが白石に似てるし」ぐらいの感想しか出てこなかった。


 僕は音楽の収録風景には立ち合ったことはないが、ラジオ番組の収録は参加したことがある。もちろん、素人のそれではない。
 ラジオ番組において「出演者が楽しかった」というのは何の意味もなさない。そもそも、女の子の「楽しい会話」ぐらい面白くないものはない。そこにあるのは同意だけで、何の発展性もない。
 グダグダな話ならば、ファーストフード店やカフェでいくらでも聴ける。そうならないためには、緊張感がなければならない。「楽しかった」ではなく「充実した」といえるものを。


 音楽収録も同じだと思う。「楽しく収録した」だけの音楽なんて、僕は聴きたくない。
 「ランティス組曲」は、ニコニコ動画を知らない人からすれば、ガッカリする出来だろう。
 もちろん「ニコニコ動画で人気が出れば、レコードデビューもできるかも?」という可能性には夢があるが、今回のようなアプローチでは、僕は二度と関心を持つことはないと思う。