「マグダラのマリア」 ―娼婦であり聖女でもあった女性像 (評価:C)

マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)

マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)

 
 キリスト教の「新約聖書」の登場人物の中のひとり「マグダラのマリア」は、その叙述の少なさに関わらず、現在でも人気の高い女性で、数多くの絵画や文学、映画に登場してきた。
 最近では「ダ・ヴィンチ・コード」にて、イエス・キリストの妻であったという仮説とともに取り上げられたのは記憶に新しい。
 
 聖書では、イエスに「七つの悪霊を追い出された」ことにより、彼の伝道に同行し(Luke8:2)、イエスの十字架での刑死後、その復活を最初に目撃した人と伝えている(John20:1-18
 
 「七つの悪霊」ということから、マグダラのマリアを「娼婦であった」と規定したのだが、キリスト教の最大宗派カトリックである。それ以外の宗派でも、マグダラのマリアは、若き日に性的に放埓な生活を送っていたと捉えるところが多い。
 
 若さと美貌に溺れていた彼女は、イエスにより改心(宗教的にいえば回心)し、それまでの享楽の生活を捨ててイエスに従ったと考えられている。イエスの捕縛の後、ペテロをはじめとした弟子団は離散したが、彼女は他の女性たちとともに、イエスの刑死する様を気丈に見守った。そして、イエスの復活というキリスト教の根幹をなす宗教的体験をすることになる。
  
 絵画でのマグダラのマリアは、イエスの母マリアとともに描かれることが多い。
 イエスの母マリアは処女で出産したことから「清らかさ」の象徴といわれる。純潔を守ったことにより、イエスを身ごもるという栄光を授けられたのだ。
 しかし、若き日に罪をおかしたマグダラのマリアも、処女母マリアとともにイエスが復活するという奇蹟を経験することができたのだ。
 
 英語では、イエスの母マリアは「the Virgin」、マグダラのマリアは「the Sinner」つまり「罪の女」と表現される。
 そんな対照的な二人が共に聖女として描かれている絵画は、当時の女性観を知ることができる格好の素材となっている。
 
 「マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)」では、芸術作品のマグダラのマリアの変遷を通じて「娼婦であり聖女でもある」女性を、人々がどのように受けとめていったのかを中心に取り上げている。

マグダラのマリアはどのように娼婦と断罪されたか?

 
 新約聖書のどこを読んでも、マグダラのマリアが娼婦であるとは書かれていない。
 実は、現在の「マグダラのマリア」のイメージは、複数の「マリア」を融合して解釈されているのだ。
 
 マグダラのマリアの有名な場面のひとつに「イエスの足に接吻した」シーンがある。
 これはルカによる福音書に出てくる。

罪人である一人の女がその町にいたが,彼(イエス)がファリサイ人の家で横になっていると知ると,香油の入った雪花石こうのつぼを持って来た。 泣きながら後ろから彼の足もとに進み寄り,自分の涙で彼の両足をぬらし始め,自分の髪でそれらをぬぐい,その両足に口づけし,それらに香油を塗った。(Luke7:37-38)

 
 「罪深い女」であって、マグダラのマリアとは断定していない。
 しかし、その場面のすぐ後に、マグダラのマリアの名が登場する。
 

その後間もなく,彼(イエス)は町々や村々を通って行きながら,宣教し,神の王国の良いたよりを伝えた。彼と共にいたのは十二人,また,悪い霊たちと病弱さからいやされた何人かの女たちであった。すなわち,七つの悪霊たちが出て行った,マグダレネと呼ばれるマリア,そしてヘロデの管理人クーザスの妻ヨハンナ,スサンナ,そのほか大勢の女たちである。彼女たちは,自分たちの財産をもって彼らに仕えていた。(Luke8:1-8:3

 
 この両者を同一人物であると解釈したのが、6世紀末のローマ教皇グレゴリウス一世である。
 
 彼はまたマグダラのマリアベタニアのマリアと同一人物であるとした。
 

エスはベタニアに来た。死んでいた者で,彼が死んだ者たちの中から生き返らせたラザロがいた所である。そこで彼らは彼に夕食を用意した。マルタが給仕していたが,ラザロは彼と共に食卓に着いていた者たちの一人であった。そこでマリアは,非常に高価な純正のナルド香油一ポンドを取り,イエスの両足に塗り,自分の髪で彼の両足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。(John12:1-12:3

 
 ベタニアのマリアと罪深い女の描写は酷似しているが、なぜ、それがマグダラのマリアであると断定したのであろうか。現在の聖書学者で、この三者を同一人物であるとみなす人はいない。
 
 しかし、グレゴリウス一世は、マグダラのマリアを「罪深い女」だと規定した。
 そして、マグダラのマリアがイエスによって追い払われた「七つの悪霊」とは、「七つの大罪」、すなわち、邪淫、貪食、貪欲、怠惰、憤怒、羨望、高慢であるとした。
 
 こうして、マグダラのマリアは「罪深い女」として断定されることになったのだ。1964年まで、カトリックでは、マグダラのマリアを「the Sinner」を呼び続けてきたのだ。
 
 さらに、マグダラのマリアというキャラクタの造形に欠かせないのが「エジプトのマリア」という女性である。以下、マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)からの引用である。
 

そのモデルとなったのが、五世紀に生きたエジプトのマリアで、この聖女は、一二歳のときに娼婦となり、一七年間この生活を続けていたが、エルサレムへの巡礼をきっかけに、自分の罪の深さに心から打ちのめされ、発心して世を捨て、公卿のなか、以後四七年もの長きにわたって、ひとり砂漠で純潔を守って生きたのであった。

 

 
 30歳以降のひとり身を「純潔を守る」と表現するのが適当なのかは疑問だが、このエジプトのマリアの生涯は、そのまま、マグダラのマリアの生涯として受け止められるようになった。
 
 マグダラのマリアには「修道女」というイメージが付属しているが、それはこの「エジプトのマリア」が彼女と融合して受けとめられたためであると思われる。
 
 「娼婦」と「修道女」は立場が似ている。どちらも家族を持たない、社会制度の「外れ者」だからである。
 そのため、キリスト教会は娼婦を積極的に修道女として受け入れようとした。ただ、とても予算が追いつかず、そのような社会奉仕は長く続かなかったのだが。
 
 また、ある宗派では「ひとり砂漠で純潔を守る」という一節から想像をたくましくして「身体のうずきを、人里離れた地で、みずからを鞭打つことで、耐えていたのであろう」とエジプトのマリア=マグダラのマリアのことを考えた。性的妄想に他ならないと思うが、そのため、マグダラのマリアは、裸身で鞭打つ姿で描かれることも多い。
 

ティツィアーノとカラバッジョ

 

 
 マグダラのマリアの絵画でもっとも有名なのが、ルネサンス期に活躍したティツィアーノ作品であろう。
 
 この「悔悛のマグダラのマリア」には数種類あり、1530年代はじめに描かれたものは、裸身で描かれている。
 まるで「裸のマハ」と「着衣のマハ」を想起させるこの二つの絵は、画家なりの「マグダラのマリア」の解釈の変遷をうかがうことができる。
 
 個人的には、裸身の絵は、マグダラのマリアらしくないと思える。いささかギリシャ的だ。
 もし、着衣のものを制作しなければ、彼の絵が「マグダラのマリア」の代表作として知られることはなかったのではないだろうか。 
 続くバロックの代表的画家であるカラバッジョも、マグダラのマリアを多く描いた。
 
 カラバッジョのよく知られる絵画のひとつの「聖母の死」がある。イエスの母マリアの死に、人間の生活の匂いを織り込んだその絵は、「宗教画にふさわしくない」と教会側に受け取りを拒否された。
 
 その「聖母の死」のなかでもっとも目立つ位置にマグダラのマリアは描かれている。黄色の服で涙を流している女性がそれである。聖母の死には、使徒たち男しか描かれないのが通弊であったため、この絵画は多くの批判を浴びることになったのだ。
  
 そんなカラバッジョは、マグダラのマリアを単体でも描いた。
 市井の人間を聖人のモデルに使うべきではない、と当時の人々は批判したというが、あながち間違っていない気がする。新約聖書の乾いた世界観が、この絵画には感じられない。
 「今日のマグダラのマリア」と改題すべきであろう。
 
 この絵よりも、後期に描いたマグダラのマリアのほうがはるかに良いのだが、wikipediaでは見つけることができなかった。
 

絵画でのマグダラのマリアの流行

 マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)は「ルネサンスはヴィーナスの時代、バロックマグダラのマリアの時代」とする。美を表現するだけで良いヴィーナスに比べ、「娼婦であり聖女でもある」マグダラのマリアを描ききることには、画家の技量と人生経験が試される。女性への深い洞察がなければ、マグダラのマリアを描くことは不可能だ。
 
 それらの多くはWikipediaCommons(http://commons.wikimedia.org/wiki/Maria_Magdalene)で見ることはできる。それぞれの制作年代を調べながら見ていくと、西洋の女性像の変遷がうかがえて楽しめる。
 
 欧米の人たちは、これらの絵画を見ながら育ってきた。だから、マグダラのマリアに対する思い入れは強い。この現在でも、マグダラのマリアというモチーフは無縁のものではない。
 
 キリスト教文化を理解するのに、聖書を読むことは必須だが、聖書だけではそれを把握するのは不可能である。マグダラのマリア像の変遷は、そんなキリスト教文化を知る上で非常に有益な教材となるだろう。


◆WikipediaCommonsで掲載されているマグダラのマリア
(いずれもクリックで拡大表示)



 
 イエスの死後、マグダラのマリアは、その美貌にかかわらず隠遁した生活を送ったとされた。
 全ての富を捨てたことを示す裸身で、死の象徴である髑髏とともに描かれることが多い。
 前述した通り、ある宗派では、みずからを鞭打って、身体のうずきをおさえていたと教え、同じ苦行を信徒に課していた。
 まるで、自慰行為にふけるかのように恍惚とした表情も多い。もはや、宗教画を装ったポルノグラフィである。
 
 娼婦であったと伝えられるマグダラのマリアだから、画家も遠慮なく官能的に描くことができたのであろう。マグダラのマリアは、キリスト教芸術にふれる者にとって、唯一、官能美を愉しむことができる題材である。
 

マグダラのマリアの持つ「強さ」

 

 
 この「マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)」の筆者は、マグダラのマリアベタニアのマリアと同一人物にしたのは、カトリック教会の「陰謀」であると言う。
 しかし、二つのマリアが同一人物という誤解が、マグダラのマリアというモチーフをより魅力的にしてきたのだ。
 
 そのベタニアのマリアには、マタイという姉がいる。そんな二人のことを聖書ではこう記す。
 

彼らが進んで行くうちに,彼はある村に入り,マルタという名の女が彼を自分の家に迎えた。 彼女にはマリアという姉妹がいたが,イエスの足もとに座って,その言葉を聞いていた。しかしマルタは,多くの給仕で取り乱していた。そこで彼女は彼のもとに上がって来て言った,「主よ,わたしの姉妹がわたしだけに給仕をさせているのを何とも思われないのですか。ですから,わたしを手伝うよう彼女におっしゃってください」。
エスは彼女に答えた,「マルタ,マルタ,あなたは多くのことを心配して動転している。だが,必要なのは一つだけだ。マリアは良いほうを選んだのだ。それが彼女から取り去られることはないだろう」。(Luke10:38-42)

 
 この箇所だけを見れば、マリアはおとなしい女性に見えるが、思い切りの良い女性でもあった。以下、再掲。
 

マルタが給仕していたが,ラザロは彼と共に食卓に着いていた者たちの一人であった。そこでマリアは,非常に高価な純正のナルド香油一ポンドを取り,イエスの両足に塗り,自分の髪で彼の両足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。(John12:1-12:3

 
 家庭的な当時のユダヤの女性を体現するような姉マルタに比べて、何ともマリアの行動が生き生きとしていることか。
 
 そして、マグダラのマリアを語る上で決して忘れてはならないのが、イエスの復活のシーンである。聖書の中で、もっとも美しい場面といっていいだろう。
 

さて,週の初めの日,マリア・マグダレネは朝早く,まだ暗いうちに墓にやって来た。そして,墓から石が取りのけられているのを見た。それで彼女は,走ってシモン・ペトロとイエスが愛していたもう一人の弟子のところに行き,彼らに言った,「人々が主を墓から取り去ってしまい,どこに置いたのか分かりません!」
 
それでペトロともう一人の弟子は出て行き,墓に向かった。彼らは二人とも一緒に走っていた。もう一人の弟子はペトロを追い越して,最初に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと,亜麻布が置かれているのを見たが,中には入らなかった。それから彼の後でシモン・ペトロがやって来て,墓の中に入った。彼は亜麻布が置かれているのを見た。また,イエスの頭にあった布が,亜麻布と共にはなく,別の場所で巻かれているのを見た。こうしてその時,最初に墓に来たもう一人の弟子も中に入り,これを見て信じた。というのは,彼らはまだ,彼が死んだ者たちの中から生き返らなければならないという聖書を知っていなかったからである。そこで弟子たちは自分たちの家に去って行った。
 
しかし,マリアは墓の外で泣きながら立っていた。それで,泣きながら,身をかがめて墓の中を見た。そして彼女は,イエスの体が横たえられていた所に,二人の白い衣のみ使いが,一人は頭のところに,もう一人は足のところに座っているのを見た。彼らは彼女に言った,「女よ,なぜ泣いているのか」。
 
彼女は彼らに言った,「人々がわたしの主を取り去ってしまい,どこに置いたのか分からないのです」。彼女はこのことを言ってから,振り向いてイエスが立っているのを見た。しかし,それがイエスだとは分からなかった。
 
エスは彼女に言った,「女よ,なぜ泣いているのか。だれを探し求めているのか」。
 
彼女は,彼を庭師だと思っていたので,彼に言った,「だんな様,あなたが彼を運び去ったのでしたら,どこに置いたのか教えてください。わたしが彼を引き取ります」。
 
エスは彼女に言った,「マリア」。
 
彼女は向き直って彼に言った,「ラボニ!」 これは「先生!」と言うことである。
 
エスは彼女に言った,「わたしに触ってはいけない。わたしはまだ,わたしの父のもとに上っていないからだ。だが,わたしの兄弟たちのところに行って,『わたしは,わたしの父またあなた方の父のもと,わたしの神またあなた方の神のもとに上ろうとしている』と告げなさい」。(John20:1-20:17)

 

 
 マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)では、この「わたしに触ってはいけない」を「わたしに触れつづけてはいけない」とも解釈できると書いている。イエスの復活を信じない僕でも、マグダラのマリアがイエスに泣きながらすがりつく光景が目に浮かぶようである。
 
 確かに、彼女は「七つの悪霊」につかれた、罪深き女性だったのかもしれない。しかし、彼女はイエスを信じる思いは、誰よりも強かった。そのため、イエスとともに捕まるのを恐れ、弟子たちの多くが逃げ出したに関わらず、マグダラのマリアはイエスを信じ続けてきたのだ。
 
 現在でも「社長の命令だから」とぶつぶつ言いながら従う男たちと、正しくないことは「正しくない」と主張する女の対比は珍しいことではない。一瞬で物事を把握できる女性と、順序だって物事を理解しようとする男性の違いを見る思いである。マグダラのマリアの描写には、いずれにも、そんな彼女の「強さ」が感じられ、それが現在でも人々を魅了する理由だと考えている。
 
 マグダラのマリアがイエスの妻であったというファンタジーが起こったのも、そんなマグダラの信じる強さにうたれてのことだろう。
 

マグダラのマリアはイエスの妻であったか?

 
 数年前のベストセラーになった「ダ・ヴィンチ・コード」で、マグダラのマリアは、キリストと呼ばれしイエスの妻であるという大胆な仮説を描き、注目された。
 

ダ・ヴィンチ・コード(上) (角川文庫)

ダ・ヴィンチ・コード(上) (角川文庫)

 
 この仮説が事実であるかを実証することは難しい。なぜなら、聖書の叙述自体がきわめて矛盾が多く曖昧だからである。魏志倭人伝をいくら読んでも邪馬台国の場所が特定できないのと同じように。
 
 ただし、彼らが属していたユダヤの家族制度からいえば、マグダラのマリアがイエスの妻であった可能性はありえない。イエスが独身であったとは考えにくいが、数年の伝道活動中に出会った女性と結婚するほどのロマンティズムはもっとありえない。ユダヤの制度は、旧約聖書に厳しく規定されているし、イエスはそれら律法の多くを遵守していた。
 イエスの師、洗礼者ヨハネは領主ヘロデ・アンテパスの不貞行為を批判したことで捕縛され、刑死した。宗教的指導者であったイエスが、マグダラのマリアと結婚することは、当時の風潮からして考えられない行為なのである。
 
 しかし、マグダラのマリアがイエスの妻だったらと仮定してみることは楽しいことである。マグダラのマリアは前述したように、イエスの復活を最初に目撃したと聖書では記されている。つまり、妻が夫の復活を見たということになる。
 
 これは大いに結構な話であると思う。イエスが活動したパレスティナ地方は、現在ではユダヤとアラブの抗争が日々くりひろげられている。そのイスラム過激派の自爆テロリストは未亡人が多いことをご存じだろうか。戦場で夫をなくした女が、テロ行為に身を犠牲にしているのだ。愛する男をなくした女の悲しみは、それほどまでにすさまじいものである。
 そんな未亡人に爆弾を与えるのではなく、愛する男の復活を目撃させれば、おそらくテロに身を染めることはないだろう。イエスだって、ローマ帝国によって政治犯にでっちあげられて殺されたのだから、マグダラのマリアが人々を怨む資格は十分にあったのだ。
 ぜひとも、マグダラのマリアが妻であったという仮説は、パレスティナで語り継いでもらいたい。
 
 だが、歴史的に見れば、話はこれほど単純ではない。
 イエスの復活は、キリスト教の根幹をなす出来事である。もし、イエスの復活がなければ、キリスト教神学を確立したパウロの「イエスの十字架の死によって初めて救いが人間にもたらされた」という「贖罪」という思想が生まれることはなかった。
 復活がなければ、イエスは正しい道を教えながらも十字架で刑死した無力な義人に過ぎず、救世主としての資格は与えられなかったであろう。
 
 キリスト教を信じるか否かは、本質的には、イエスが復活したかを信じるか否かである。キリスト教の行事でも、イエスが誕生したと伝えられるクリスマスよりも、イエスが復活したとされる復活祭(イースター)のほうが、はるかに重要な祭典である。
 
 キリスト教が宗教となりえたのは、イエスが復活したからにほかならない。イエスの生前の言葉が刑死後の復活により成就されたのだと聖書では教えている。
 
 イスラム教のムハンマドとは違い、きわめて貧弱な弟子団を持たなかったイエスが、死後、多くの人に崇拝されているのは、何度も書くがこの「復活」のためである。それを最初に目撃した人間が、彼の妻であったらとどうだろうか? 一気に話が世俗的になるのではないか?
 
 イエスが死んだとき、その弟子団は壊滅状態だった。会計をつとめていたイスカリオテのユダはご存じのように、師を裏切った(私有財産を認めない宗教組織にとって、会計はきわめて重要な立場である)。イエスの一番弟子であったペテロは、師とともに捕縛されるのをおそれて「イエスのことは知らない」と否認した。
 イエスの刑死と埋葬を見守ったのは、マグダラのマリアや、イエスの母をはじめとした女たちだけであった。
(当時、女性は社会的地位が低かったために、逮捕される恐れがなかったのである)
 
 そんな弟子たちが、イエスの復活を知ってから、再び組織を形成し、伝道を再開する。イエスの刑死を見届けようとすらしなかった彼らが、刑死をも恐れず、師の教えを語り継ぐようになるのだ。
 生前のイエスとその弟子団は、民衆に見放されるほど微弱な勢力だった。そんな彼らが、イエスの死後、我が身をふりしぼって勢力を広げていく。
 最初のキリスト教の殉教(自分の信じる教えのために殺された人のこと)であるステファノの死は、イエスの刑死から数年後である。つまり、生前のイエスを知っていた人が多くいた時代に、彼らはイエスの復活を人々に伝えていたのだ。
 
 紀元一世紀のエルサレムを含めたパレスティナ地方は、ローマ帝国支配下にあった。イエスの時代は、二代皇帝ティベリウスのときである。
 この皇帝ティベリウスはきわめて合理的な人間で、あるときは占い師をすべてローマから追放したこともある。占いによる商行為を全面的に禁止したのだ。これは、アメリカの禁酒法と並ぶぐらい愚かな施策だと思うのだが、男としてその気持ちが非常によくわかる。
 それぐらいの分別がついていたのがローマ帝国の人々である。すでに四年に一度のうるう年を入れた太陽暦ユリウス暦)を採用している。紀元一世紀とはいえ、妻が「夫が復活した」と証言するのを信じるほど、人間は楽観的ではない。生物学的に人類は二千年程度でそれほど進化していないのだから。
 
 また、マグダラのマリアとペテロとの使徒の立場をめぐる争いも、歴史的にはそれほど重視することではない。もし、イエスの死後にマグダラのマリアを頂点とした組織になっていたら、キリスト教世界宗教とはなりえなかっただろう。
 
 ペテロにはイエスが持つ「強さ」はなかった。死後、弟子団の勢力は、イエスの親族(兄弟とも従兄弟ともいわれる)を中心にした保守派、イエスの死後に信者になったパウロなどの革新派とにわかれた。
 しかし、ペテロは保守派にしたがわず、最終的にパウロの待つローマに行き、刑死するのである。
 
 もし、ペテロがローマに行かなければ、原始キリスト教団はエルサレム内に留まっていたにすぎず、その教団はティトゥスによるエルサレム落城に際に滅んでしまっていただろう。
 多くの弟子は、生前のイエスを知らないということで、パウロを軽視したが、ペテロはそうではなかった。
 そして、ペテロによって、パウロの宗教的正当性は保証されたのである。
 
 そして、パウロキリスト教神学の確立者として現在でも知られている。パウロなしにキリスト教を理解することはできない。
 
 マグダラのマリアがイエスの息子を身ごもったというのは、カエサルの息子を身ごもったクレオパトラに思いをよせるようなものである。カエサルはその息子を認知せず、アウグストゥスを後継者にした。アウグストゥスは、クレオパトラの他の子供たちは認めたが、カエサルの子だけは殺した。こうして、ファンタジーの根を摘み取ったのである。
 
 当時のキリスト教の存在の危うさを知る者は、マグダラのマリアがイエスの妻である幻想には耳を傾けない。ただし、女性にとってはマグダラのマリアがイエスの妻であるという妄想は愉快なものに違いない。
 
 かつての自分の過ちをすべて許した正義の夫、しかし人々には理解されずに無実の罪で殺されるが、復活して愛する女性である自分の前に真っ先に姿をあらわし、みずからが神聖な存在であることを告げる。これほどのラブロマンスは他にないからだ。